真夏の横浜を満喫
8月に入って最初の土日は、久々にくーさんと横浜で遊びました。
そう、くーさんも横浜も久々だったんですよ。
素晴らしいピーカンだったので、とにかく暑くないところに行こうと、こちらを予約しました。
赤レンガ倉庫の中で、期間限定で行われているプラネタリウムです。
行ってみて気づいたのですが、2019年に根本さんの舞台『クロードと一緒に』を見に行ったのと同じ場所でした。
あれってもう4年前なのね~
今回は、会場の内部は空っぽ。
周囲の壁に投影用の幕が張られているだけなので、参加者は自由に歩き回ったり、フラッシュなしで写真撮影したりできます。
最初に映し出されているのは横浜の夜景でした(↓)。
そこからさまざまな世界に旅をします。
ネタバレになっちゃうので、ちょっとだけご紹介。
天井ではなく床に星々が投影されるので、自分が宇宙にいる気分が味わえます。
涼しいし、楽しいのでおススメです。
続いて向かったのは、商業施設横浜ハンマーヘッド。
コロナ禍の最中に開業したとのことで、初めて足を運びました。
名前の由来はこちらの巨大クレーン(↓)です。
荷揚げに使用していたものが、土木学会推奨土木遺産として保存されているのです。
このクレーンと海を眺めながらランチをした後、さっき通った気になる施設にリターン。
JAICA横浜の海外移住資料館を見学させていただきました。
南北アメリカを中心とした日本人の海外移住の歴史や、移住者と日系人の現在をテーマにした資料館で、くーさんはすでに何度か訪れたことがあるそうです。
私の親戚にもブラジルに移住した人がいるので、結構な時間をかけて見て回りました。
もともと、家族に仕送りをするための出稼ぎ目的で始まった海外移住は、農園などでの期間契約労働が多かったそうです。
圧倒的に多かったのが広島県からの移住者。
次いで山口県からの移住者だったというのも知らなかったです。
アメリカへの移民は黄禍論の高まりで制度的にも難しくなり、人々は南米へと向かいました。
ブラジルのアリアンサ移住地の再現(↓)。
コーヒー農園での契約労働に見切りをつけ、日本人の自作農たちが原生林を切り拓いて作ったのがこういった移住地でした。
太平洋戦争中に、アメリカの日系人が収容所に入れられたことは広く知られていますが、同様のことは南米でも起こりました。
そういった苦難を乗り越え、小さな移住地はやがて村へ、町へ、都市へと発展していきます。
(↑↓)移住した人たちが持って行った荷物の再現。下の写真にはミシンや、硯なども写っています。
最後の移民船、にっぽん丸の積み荷の再現(↓)。この船が横浜港を出発したのは1973年で、この後、移民の交通手段は飛行機になります。船だと50日以上かかったそうです。
開拓に使用された農機具(↓)。キリスト教の安息日にも休まず働いたため、非難されることもありましたが、ブラジルでは「日本人は勤勉で実直」との評価を得たとのこと。
日本人が栽培した野菜(↓)。多様な作物を出荷したため、あまり野菜を食べる習慣がなかった現地の人々の食生活も変えたそうです。
日本的な食生活を維持するため、移住先では味噌・醤油・豆腐・日本酒などが作られていました(↓)。
日本人移住者が暮らす「日本人町」の中心に作られたのが、こうした萬屋(よろずや)です(↓)。食品から衣料品、農機具といったものはもちろん、仕事のあっせんや日本への送金の窓口などにもなっていたそうです。
今回、初めて知ったのは、日本の敗戦の報に接した移住地の人々の反応です。
ブラジルでは、敗戦を信じない人々と受け入れようとする人々の間で衝突が起こり、死者まで出る騒乱となったそうです。
その後、すべてを失った祖国を助けようと、ララ物資と呼ばれる食料品を中心とした援助物資が各国の移住地から日本へ送られました。
そして、ここからはくーさんから聞いた話ですが、東日本大震災のときも、世界各地の移住地からたくさんの援助物資が届いたのだそうです。
移民も3世4世になると、自分のオリジンが日本であることを知らない人が多いそうですが、それでも祖国を思う気持ちは強いのだな、とあらためて感じました。
皇室の人がこういった移住地を訪ねるのも、大切なことなんですね。
充実の見学の後は、再度横浜ハンマーヘッドに戻り、台湾かき氷(マンゴー味)を満喫(↓)! 下のほうに杏仁豆腐まで入っていて、おいしかったです
この建物は客船ターミナルにもなっているので、横浜駅までシーバス(↓)に乗ることにしました。
海大好き・船大好き人間なので、隙あらば乗りたがります(笑)。
お向かいには横浜の壮大なスカイスクレイパーが広がり(↓)
こちら側からは船と海とベイブリッジを見ることができました(↓)。
やっぱりいいな、横浜!!