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視線の先 ( 5 / 6 )

 

連れて行かれたのは私室。

友雅さんの予想通り、役所から持ち帰ったらしい書類が広げられていた。

「狭いところで申し訳ございませんが、神子殿がくつろげる場所のほうがよろしいかと思いまして」

辺りの書類を片付けながら、鷹通さんが微笑む。

まだ驚いたままの私に、女房さんが届けてくれた被衣をはおらせ、温かい飲み物の入った茶碗を手をそえて持たせてくれた。

「一口召し上がってみてください。温まりますよ」

自分の手が、鷹通さんの手に包まれていることが恥ずかしくて、顔に血が上る。

それを隠すために持ち上げた茶碗の、中身は甘茶だった。

優しいほっとするような味。

「おいしい……」

「やっと口をきいてくださいましたね」

柔らかい笑みが向けられた。



私がぎこちなく甘茶を飲むのを見守った後、

「もし、お話になりたくないようなら無理にとは申しません」

と、鷹通さんは言ってくれた。

背中をぽんとたたいて、紙燭をはさんだ向かい側に座る。

「………」

勇気を振り絞るための数秒。

固く手を握りしめ、ついに、私は口を開いた。

「私……元の世界には帰りません」

目はまっすぐに鷹通さんを見つめていた。



灯火がかすかに揺れる。

あたりはすっかり闇に包まれていた。

揺らめく灯りを受けた鷹通さんは、驚愕の表情のまま。

やがて唇が動いたが、声は聞こえない。

私はこぶしを握りしめたまま、彼を見つめ続けた。

「……どうして」

やがて、ようやく一言。

鷹通さんの顔に表情が戻る。

「どうしてそのようなことを! 神子殿!」

私のそばに駆け寄り、腕をつかんだ。

乱暴ではないが、目が必死に答えを求めている。

私も目をそらさずに、口を開く。

「帰ったら、鷹通さんにもう会えないから…!」

「…!」

彼が息を呑んだのがわかった。



さまざまな感情が瞳に映っては消えていく。

ふと大人の表情が浮かび、身体を離しかける。

けれど、次に襲ってきた感情の波がそれをとどめ、結局私は固く抱き締められた。

さっき、慰めるように抱きとめた時とはまったく違う、何かを訴えるような抱擁。

山羊座の生真面目さと射手座の情熱。

ここにとどまれるのなら、ほかのいっさいを失ってもいい。

その気持ちを伝えるため、ギュッと抱き返す。

「…いけません…」

腕にこもる力は少しも緩まないのに、鷹通さんの口からもれた言葉は正反対だった。

「鷹通さん…?」

「…そのように大切なことを……一時の感情にまかせて決めてはいけません…」

絞り出すような、苦しげな声。

抱き締めあったままなので、顔を見ることはできない。

「でも…」

身じろぎするが、腕は緩まない。

「…この京を…少しでも住みやすい都にするのは、私の使命です…。全力を傾けて任をまっとうしてまいります…けれど…」

ふっと力が抜ける。

顔を上げようとすると、前髪にそっと唇が押し付けられた。

「…神子殿に、元の世界のような自由をお約束することはできません……どれほど努力をしても、実現はできないでしょう…」

熱い息がかかる。

「…それでも私は……そばにいたいんです」

「………」



長い長い沈黙だった。

もう、答えてくれないのかと思い始めた頃、髪に差し入れられた手がうなじを支えた。

「?」

気づくと、前髪から唇は離れている。

ようやく見上げた鷹通さんの瞳は、哀しげにも、うれしげにも見えた。

「あかね殿…」

「は、はい」

名前を呼ばれたのは初めて。

神子でない私への言葉だ。

「私は……あなたをお慕いしています。ほかの誰よりも…」

胸がいっぱいになる。

「私も…! 私も鷹通さんが好き! 大好…」

「許してください」

さえぎるようなつぶやきが聞こえた次の瞬間、私たちの唇は重なっていた。



時間の感覚が消える。

ただ、離れたくなくて繰り返す口づけ。

時に視線を交わし、想いを唇に乗せて重ねあう。

無言の、けれどどんな言葉よりも雄弁な会話。

少しでもそばにいたくて、身体を寄せあい、唇を寄せあい、抱き締めあう。



激情の時が過ぎても、私たちは身を寄せあって座っていた。

「…藤姫が心配されます。土御門までお送りしましょう」

先に口をきいたのは鷹通さん。

いつもの穏やかな声に戻っていた。

「私……いろいろなこと覚えます。鷹通さんに迷惑かけないように頑張ります」

長い指が私の髪にからめられ、静かに、愛おしげに撫でる。

「……不思議なものです」

途切れた言葉の先を聞くため、私は顔を上げた。

少し自嘲めいた鷹通さんの笑顔。

「私は案外欲張りで、自分の想いを抑えるのに苦労することが多いのです。ですから、かなわない望みは極力抱かないようにしてきました」

髪から頬に、鷹通さんの指がゆっくりと私の輪郭をたどっていく。

「けれど……狂おしいほどに求めたあなたを胸に抱きながら、今私が望むのは、あなたを京にとどめることではありません」

「鷹通さん…?」

顎に達した指に軽く持ち上げられて、再び唇が触れ合う。

そっと、頬や目蓋にひとつひとつ口づけを落としながらのささやき。

「こんなにも誰かを愛せるようになるとは、まるで奇蹟のようです。そして……私にとって一番大切なのは、あなたの幸せなのです」

ゆっくりと、名残を惜しむようにもう一度だけ唇を重ねると、私の目をまっすぐ見つめて鷹通さんは言った。

「元の世界にお帰りください」

 

 
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