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朴念仁 ( 5 / 6 )
「……私はかつて、この大豊神社で何度も涙を流しました」 しばらく後、境内の舞殿の階に腰を下ろすと、鷹通は話し始めた。 傍らに寄り添ったまま、あかねは耳を傾ける。 「実の母に去られたとき、義理の母を病で失ったとき……。まるで、意地の悪い神が私の大切なものを狙いすまして奪っていくような気がしたものです」 遠い目は、かつての痛みを思い起こしているようだった。 「……魂を引きちぎられるような別れはあまりに辛くて……だから私はいつしか、大切なものを持たないようになっていきました。大切なものがなければ、なくすことも、奪われることもない。もうあの辛い気持ちを味わうことはないと…」 あかねは鷹通の髪にそっと触れた。 その手を愛おしむように指でたどり、鷹通は微笑む。 「弱い私は、自分を守るために心を閉ざしたのです」
反論しようとするあかねの唇に軽く指をあてると、言葉を続けた。 「職務や役目はそんな私の救いとなりました。情熱を傾け、状況を改善し、達成感と生きる意味を得ることができる。八葉に任じられたときも、心が弾みました。自分が京のために何かできる、治部省での役目以上に、民の役に立てると」 あかねは、初めて会ったときの鷹通を思い出した。 穏やかな表情、根気よくわかりやすく説明する態度、揺るぎない使命感。 悩み迷う自分を導いてくれた陽光の人。 「……けれど、私は徐々にあなたに惹かれ始めていた。あなたという人を、八葉としてではなく、一人の男子として、慕うようになっていた。もちろん、あってはならないことです。立場から言っても、身分から言っても。それに何より、私は大切なものを持つことが怖かった」
あかねが、黙って鷹通を見上げる。 彼は少し哀しそうに微笑んだ。 「だから、自分の気持ちに気づかないよう、最大限の努力をしました。あなたの役に立ちたいと思うのも、あなたの微笑みがまぶしく思えるのも、自分が八葉だから、これが重要な役目だから。特に意識していたわけではないのです。そういう風に逃げるのが……すでに習い性になっていました」 (本当はわかっているのだろう? 何を恐れているんだい) 友雅の声がよみがえる。 さぞや滑稽に見えただろうと、鷹通は苦笑した。 「…鷹通さん?」 不思議そうに見つめるあかねを抱き寄せ、言葉を続ける。 「けれど先ほどあなたの涙を見て……私に背を向けて去っていこうとされたのを見て………限界が来ました。あなたを絶対に離したくない。あなたなしでは生きていけないと」 二人の唇が再び重なって、しばしの沈黙が落ちる。
「……私が鷹通さんを好きなことは、八葉のみんなにバレバレだって友雅さんに言われました」 鷹通の胸に顔を埋めたまま、あかねが頬を染めて言った。 「……では、あらためて私が怒りを買うことはなさそうですね」 やわらかな髪を指で梳きながら鷹通が呟く。 「…怒り?」 鷹通は思わず微笑した。 「いえ、何でもありません」 「?」 八葉すべてから想いを寄せられていることに、あかねはまるで気づいていない。 その少女が今、自分だけを見つめ、慕ってくれることが鷹通には奇蹟のように思えた。 愛しさのあまり、もう一度あかねの頬に手を伸ばす。 すると、突然大きな咳払いが聞こえた。
「!?」 びっくりしてそちらを見ると、鷹通が幼い頃から顔なじみの大豊神社の神官が、こちらに背を向けて立っていた。 「し、神官殿!」 声が思わず裏返る。 「治部少丞殿、そろそろ境内を掃き清めたいのだが……よろしいでしょうか?」 手に持った箒を上下させながら神官が言う。 「も、申し訳ございません、神聖な場所でこのような…!」 あかねも一緒になって立ち上がり、二人でペコペコと頭を下げた。 それを押しとどめながら、神官は微笑む。 「いえ、とんでもない。鷹通殿がこのように幸せそうな顔をされているのを初めて見ました。時間はかかったかもしれませんが、大豊の社があなたの願いを叶えてくれたのなら何よりです」 「…神官殿……」
実の母と生き別れた日、ひとりぼっちの寂しさに涙した日、義理の母を永遠に失った日……。 鷹通の涙を、この社はずっと見守ってきた。 傍らのあかねの手を取り、彼ははっきりと答える。 「はい。この社は私に、誰よりも大切な方をお与えくださいました。そして、二度とここで涙することがないよう、この方をお守りしていきたいと思います」 「鷹通さん…!」 あかねが真っ赤になる。 それを聞いて、神官はうれしそうにうなずいた。 「お二人の幸せを願っておりますよ。それから……先ほどのようなことは、今後はどうぞ御簾の内にてお願いいたします」 「「!!」」 全身を真っ赤にした2人が、神官に謝りまくったのは言うまでもない。
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