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雨の中にただ佇んで ( 2 / 3 )

 



おろし立てのレインシューズが活躍するのはうれしいが、それにしても雨が激しすぎる。

両手で傘を必死に支えながら、望美は家への道を急いでいた。

「乱暴に歩いて、靴の中に水を入れちゃダメよ。履けなくなっちゃうから」

今朝、母から言われた言葉を思い出し、少しだけ足の運びを慎重にする。

そのとき視界の隅に、チラリと人影が映った。

土砂降りの中、その影は傘をさしていない。

驚いて頭を巡らすと、公園の木々の向こうによく知っている少年が佇んでいた。




「譲くん?!」




名前を呼びながら、あわてて駆け寄る。

今さら傘をさしかけても無駄なくらい、譲は全身ずぶ濡れだった。

手に竹刀を持って、ただかたくなにうつむいている。

「どうしたの?! 雨降ってるんだよ? どうして家に帰らないの? 風邪ひいちゃうよ?!」

「……望美ちゃん……」

ようやく顔を上げた譲の頬を、雨とは違う雫が一筋つたった。

その瞬間、望美は状況を理解する。

「将臣くんとケンカしたの? 今、家に帰りたくないの?」

こくんと頷く譲を傘の下に押し込むと、望美は足早に自宅に急いだ。

(もう~、将臣くん、よりによってこんな日にケンカしなくてもいいじゃない!)

と、頭から湯気が上がるほど怒りながら。




「まあ~~、譲くん、どうしたの?! とにかくお風呂に入りなさい! 
おうちにはおばさんが知らせて あげるから!」

望美の母は素っ頓狂な声を上げながらも、バスタブに湯を満たし、譲を肩までつからせた。

「望美、バスタオルと何か温かいもの、あ、ココアでいいわ、譲くんに作ってあげて!
お母さん、お隣に行ってくるから」

「お母さん、電話! 電話すればいいよ!」

「あ、そうか。ナイスアイディア!」

バタバタと家の中を走り回りながら、望美と母は譲のためにあれこれ用意したり整えたりした。




しばらく後。

共働きの有川家の両親に代わり、着替えを持って春日家にやってきたのは、譲の祖母だった。

玄関で出迎えた望美は、うれしそうに抱きつく。

「おばあさま! いらっしゃい!」

「こんにちは、望美ちゃん。ごめんなさいね、譲が迷惑かけて」

「迷惑なんかじゃないです! 将臣くんが譲くんをいじめるから悪いんだよ!」

ぷんと頬を膨らませた望美を見て、

「望美ちゃんはいつも譲の味方ね」

と、祖母は微笑む。

望美は彼女を、譲のいる和室へと案内した。




「おばあさま!」

ブカブカのバスローブを着た譲が、ココアのカップを置いて立ち上がる。

「望美ちゃん、ありがとう。これから譲を着替えさせますから」

「じゃあ私、おばあさまにもココア作ってくるね!」

キッチンに走っていく足音を聞きながら、祖母は譲に着替えを差し出した。

「ありがとう……ございます」

譲は礼を言って受け取り、手早く身に着ける。

そして、背筋を伸ばして座っている祖母の前に、同じようにきちんと正座した。

祖母は静かな声で話し始める。




「譲、将臣に剣道でかなわないからと言って、逃げ出してどうなるのですか?」

「……おばあさま」

「譲は将臣の何倍練習しましたか? 
確かにあの子は器用だから、普通の人が十回で覚えるところを三回 もやれば覚えられるでしょう。

ならば譲は、その差を埋められるだけの練習をしたのですか?」

「…………」

両手をぎゅっと握ってうつむく譲を、祖母はじっと見詰めた。




「……お兄ちゃんは僕より年上だし、僕より何でもできて、すぐ僕をバカにするから」

「その度に譲は逃げるつもりですか? これからもずっと?」

祖母の言葉に、思わず譲は顔を上げる。

「違う!」

「ならば、どうします?」

まっすぐに見つめられて、譲は喉から声を絞り出した。

「……お兄ちゃんより練習して……勝てるようになるまで、頑張ります……」

「そうですね。そうするしかありません」

「はい……」




コンコンと控えめなノックをして、望美が障子の陰から顔を出した。

「おばあさま、入っても大丈夫?」

「ええ、望美ちゃん。ココアを持ってきてくれたの? ありがとう」

望美は、両手に持ったマグカップの片方を彼女に渡すと、もう一方を譲に差し出した。

「はい、おかわり。元気出してね」

「望美ちゃん……」

譲がおずおずと受け取ると、その横にポスンと座る。

「ねえ、譲くん、将臣くんは何でもすぐできるようになるけど、飽きるのも早いじゃない。
コツコツ頑張 る譲くんなら、きっと将臣くんよりうまくなれるよ」

「……でも、お兄ちゃんには『才能』があるから……」

「そんなことを言い訳にしてはいけません」

祖母がピシリと言う。

「……それに表にあまり見せないだけで、将臣は努力家ですよ。
一人で稽古もずいぶんしています」

「え、そうなんですか?」

驚いて尋ねる望美に、深くうなずく。

「ええ、もちろん。将臣も譲も、私の自慢の孫ですもの」

「「おばあさま」」

譲は下を向いて赤くなり、望美は微笑んだ。




「…とはいえ、譲も追いかける一方ではつらいでしょう。
今度の日曜日に八幡宮の研修道場に連れて行ってあげます」

「研修道場? 剣道をするところ?」

譲が不思議そうに尋ねると、

「剣道場以外に、あそこには弓道場もあるの。
高校生からしか習うことはできないけれど、一度見てみる といいでしょう」

と言って、取り出した手帳のページに「弓弦」と書いた。




覗き込んだ望美が、「ゆみ……?」と声に出す。

「これで『ゆづる』と読みます。弓に張る弦(つる)のことをそう呼ぶのよ」

「僕と同じ名前?」

驚く譲に、祖母は微笑んだ。

「そう。譲の名前には、弓の弦が入っているの。
お父さんとお母さんは、最初はこの字にしようと思ったそうよ」

「ゆづる……」

「すごいね、譲くん。譲くんが弓道をやったらぴったりだね!」

望美がうれしそうに言うと、譲はポッと赤くなった。




「あなたたちが通うことになる中学には、弓道部があるんですよ。
日曜に見てみて、興味が持てそうなら中学に上がってからお始めなさい。

譲もそろそろ、将臣と違うことをやってもいいころです。
それまでは 剣道をきちんと稽古して、身体を作るんですよ」

「はい、おばあさま!」

元気のいい返事が、弓道に対する譲の気持ちを表していた。

「じゃあ、そろそろお暇しましょう」と祖母が立ち上がる。

玄関まで三人で出たところで、「あ、僕、洗ってもらった服を取ってくる」と、譲が望美の母のもとへ走っていった。




「……ねえ、おばあさま、譲くんのお母さんとお父さんは、どうしてあの漢字にしなかったの?」

待っている間、望美がさっき抱いた疑問を口にする。

「弓弦」もとてもきれいな名前だと思ったからだ。

「『将臣』に『弓弦』では、二人とも先に走っていってしまいそうでしょう? 
譲には、自分が一歩引いてでも人のことを思いやる、優しい子になってもらいたかったのよ」

と祖母は微笑んだ。

「そうなんだ! だったら私、譲くんが譲くんでよかった!」

「ありがとう、望美ちゃん。……将臣が道を拓いて、譲が後ろを守る。
そうやって役目を果たしてくれればいいのだけれど」

「え…?」




二人の話は、しかし、譲と一緒に玄関に出てきた望美の母に遮られ、そのまま立ち消えとなった。

以来、二度と語られることはなかったのだが……。









 

 
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