聖地を訪れた日 ( 2 / 2 )
はあ……っと、深いため息がもれる。
人前では決して見せることのない憂いに満ちた顔。
自室の扉を閉めた途端、リュミエールの全身を疲れと悲哀のベールが包み込んだ。
聖地に到着して3日。
いつものとおり、現在の水の守護聖のもとに出向くと、今日は「日の曜日」で、執務は休みだと告げられた。
「休み……ですか」
「お前も長旅の後、すぐに引き継ぎが始まって疲れているだろう。今日一日は心身を休めて明日に備えなさい」
「承知いたしました」
深々と頭を下げ、水の守護聖の部屋を辞す。
そのまま邸の別翼にある自室へと戻ってきたのだった。
リュミエールは、水の守護聖の私邸内に部屋を与えられている。
趣味のいい家具と窓から見える美しい風景は心を慰めてくれるが、それでもあの前任者と同じ邸内にいると思うと、緊張を解くことはできなかった 。
人々の心を癒す「やさしさ」を司る水の守護聖。
そのサクリアとは裏腹に、彼は冷たく、厳しい人物に見える。
着任の日に紹介された首座の守護聖ジュリアスも、守護聖の任の重大さを延々と説き、射るような鋭いまなざしでリュミエールを見つめた。
緊張のため、広間に集められたほかの守護聖たちの顔をろくに見ることもできなかったが、温和に微笑む地の守護聖と、「あまりジュリアスの言う事を真に受けないほうがいい」と笑ってくれた緑の守護聖の二人にだけは、心が開ける気がした。
とにかく今日はこの邸から出よう……と、部屋の中に視線を投げたリュミエールは、ある物に目を留めた。
* * *
穏やかなせせらぎの音色が耳を心地よくくすぐる。
頭上をやわらかく覆う広葉樹の葉蔭から、木漏れ日がキラキラと落ちてくる。
初日に聖地を案内された際、もう一度訪れたいと思った場所。
森の湖に注ぎこむ小さな流れのほとりに、リュミエールは腰を下ろしていた。
澄みきった流れは、絶えることなく楽の音を奏でている。
身を乗り出し、そっと手を浸してみた。
ほどよい冷たさと、おだやかな流れが、身内に溜まった淀みを洗い流してくれる気がする。
聖地に来て初めて、心が安らぐのを感じた。
適当な岩に腰掛け、ひとつ息をつくとハープの弦に指を触れる。
故郷からただ一つだけ、持ってくることができた楽器。
水の守護聖の邸では、音を気にしてまだ一度も弾いていなかった。
変わらぬ優雅な音色に励まされ、懐かしい故郷の曲を1つ、また1つと奏でていく。
いつしか、自分の境遇も、故郷や家族から引き離された悲しみも、すべてを忘れて音に集中していた。
そばに佇む人影にも気づかずに。
カサッと、曲の合間に微かな葉ずれの音がした。
とっさに振り向くと、漆黒の闇をまとった人物が樹の陰に立っていた。
「!!」
驚きのあまり、リュミエールはハープを取り落としそうになる。
「あ! も、申し訳ございません。いらっしゃったことにまったく気づかず、大変失礼を……!」
立ち上がって謝罪しながら、記憶を必死で探る。
あれは確か、守護聖の一人で、闇を司る……?
「……別に。私が勝手にここにいただけだ……」
「あ、もしかして、こちらでくつろがれるためにお越しになられたのでは? 騒がしくて申し訳ございませんでした。すぐに引き上げますのでどうか」
「……少し落ち着け……」
ため息とともに言葉を吐き出すと、闇の守護聖はリュミエールのそばにゆっくりと近づいてきた。
不機嫌この上ない顔なのに、なぜかあまり威圧感がない。
白檀の香りがかすかに漂い、気づくとすぐそばの岩に彼は腰かけていた。
「…………あの……?」
「もう少し……先ほどの曲を奏でてはくれぬか」
「え……?……」
「……よい音色だ……」
そう言うと、彼は目を閉じてしまう。
「…………」
リュミエールは仕方なく、もう一度岩に腰を下ろした。
ポロン……と、弦をひとつ弾く。
闇の守護聖は微動だにしない。
ポロン、ポロンとためらいがちに、ゆっくりと曲を奏で始めた。
細い指先が生み出す繊細な音の切片が、布を織りあげるように新しい光景を紡ぎ出していく。
先ほどよりもさらに、音に没入している自分をリュミエールは発見した。
あるときは哀しく。
あるときは優しく。
さまざまな表情をもつ音色が途切れることなく水辺を彩る。
虹の中にいるような心持ちで、リュミエールは無心に弦をつま弾いた。
ずいぶんと長い時間が流れた気がした。
演奏を止めると、眠っているように見えた闇の守護聖が静かに目を開けた 。
「お耳汚しを……」
「……私は楽しんだ。そのような言葉は必要ない」
ぶっきらぼうな物言いが、この上ない讃辞に聞こえる。
「では、お聞きくださってありがとうございました、闇の守護聖様」
ためらいがちに微笑んで、リュミエールは彼の漆黒の瞳を見つめた。
「……クラヴィスでいい」
目をそらして、面倒くさそうに言う。
立ち上がりかけた彼に、リュミエールは演奏中から気になっていた疑問をぶつけた。
「あの……クラヴィス様、……クラヴィス様はどのような力を司っていらっしゃるのでしょう? 不勉強で申し訳ございませんが」
闇の守護聖の動きが、一瞬止まる。
「私か……」
上げられた顔には、皮肉な笑みが浮かんでいた。
「……闇のサクリアが司るのは、『安らぎ』だ」
「ああ…! 御身にふさわしい力を統べておいでなのですね」
「…………」
「……クラヴィス様……?」
「……お前は……」
クラヴィスにじっと見つめられて、リュミエールは彼の瞳の色が深い紫であることに気づいた。
安らぎを司る闇に最もふさわしい色……。
「……また……」
長い闇色のまつ毛が、紫水晶の瞳に影を落とした。
「はい?」
「そのうち、楽の音を聞かせてくれるか」
「はい。わたくしの演奏でよければ、いつでも」
クラヴィスは一瞬、フッと微笑んだ。
「礼を言う」
去っていく背の高い後ろ姿を見送りながら、リュミエールはもしかすると、この地で自分もやっていくことができるかもしれない……と感じていた。
水のほとりで、音楽に包まれながらならきっと、気の遠くなるほどの時を生きていけるだろうと。
聖地の空はどこまでも青く、そこに生きる人々の過酷な運命を見守るように輝いていた。
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