おあいこ ( 3 / 5 )
筆から墨がポトリと落ちて、譲は自分がまた物思いにふけっていたことに気づいた。
「しまった。えっと、ごまかせるかな」
貴重な紙の上に垂れた黒い汚れを見て途方に暮れる。
これが元の世界だったら、くしゃくしゃと丸めてポイッと捨てられるのに。
そうして、この憂いも少しは晴らせるかもしれないのに。
モヤモヤした気持ちを抱えながら、譲はもう何百回考えたかしれないシミュレーションを、頭の中で再開していた。
「弁慶さん。あの……私とキス……口づけをしてくれますか?」
「望美さん、そんな言い方をしないでください。僕のほうが跪いてお願いしたいのですから」
「そ、そんな……」
「さあ、僕の横に座って。今夜は月がきれいですね。本当に君は……月の女神のようだ」
「べ、弁慶さん……」
「目を閉じて。その美しい瞳を見ていると、僕は口づけだけでやめる自信がなくなってしまいます。いや……もう、とっくにそんな自信、なくなってしまったな」
「……弁慶さん、私……」
「望美さん、君はいけない人ですね……」
「いけないのはお前だっ!! 真っ黒軍師っ!!!」
自分の想像に逆上して、譲は立ち上がった。
はあはあと肩で息をしてから、虚しくなって座り込む。
(いや、ほかの2人も一緒なんだ。まさか船の上でそんな行為には及ぶまい)
気を落ち着かせようと自分に言い聞かせた言葉が、また新たな妄想を呼ぶ。
「ほらね、姫君。この入り江から見る月はなかなかのものだろう?」
「ほんと! 岩と松のシルエットが絵みたいですごくきれい! さすがヒノエくんだね、こんな場所を知ってるなんて」
「まあ、オレにとっては、2人乗りの小舟でしか来られない、っていうのが重要なんだけどね」
「え?」
「さ、『おあいこ』って奴をゆっくりと楽しもうぜ、姫君」
「ひ、ヒノエくん」
「月以外は見ちゃいないんだ。一回だけ…なんて無粋なことを言って、オレをがっかりさせないでくれよ」
「あ……」
「だからっ!! 2人っきりにしちゃいけないだろうっ!!」
また立ち上がって突っ込みを入れる。
出発前、望美を守ってくれるよう敦盛にしつこく頼んだとはいえ、朱雀の2人の手管を知っているだけに、譲の心の嵐が凪ぐことはなかった。
妄想がバリエーションを増やしながら頭の中をグルグル回っているのだから、仕事が進むわけもない。
頭をグシャグシャとかきむしると、文机の上に顔を伏せてうなった。
本当は、もっと想像したくない展開があるのだ。
だが、それをシミュレーションする勇気はない。
何せ相手は、あの兄……。
「……あの〜…、譲くん……?」
しばらく前から、その控えめな声は続いていた。
しかし、自分の考えに囚われている譲の耳には届かない。
「……あ〜、今日は出直した……ほうがいいのかな?」
しゅんとした口調。
「じゃ、じゃあ、オレ、また……」
声の主がジャリッと小石を踏んで背を向けた瞬間、譲はようやくガバッと顔を上げた。
「景時さん…?!」
「あ、ご、ごめんね〜、考え事の邪魔をしちゃって。オレってほんと、気が利かないよね〜」
源氏の軍奉行が、顔の前で両手を振って必死に謝る。
「そんなことありません! っていうか、すみません、俺、ぼーっとしちゃって」
譲は慌てて立ち上がると、景時を部屋に招き入れた。
* * *
中庭に面した部屋が、譲の仕事部屋になっている。
文机の傍らに積み上がった未処理書類を見て、景時は納得したようにうなずいた。
「あ〜……やっぱりね……」
「すみません。仕事のペースが……じゃなくて、処理スピードが……いや、あの何かスランプ……」
どうしても景時にわかる言葉を思いつけなくて、譲は焦った。
「ああ、いいよ、いいよ。言いたいことはだいたいわかるから。今日はそのことで相談に来たんだ」
「は、はい……」
うなだれた譲を安心させるように、景時は言葉を継ぐ。
「昨日九郎とも話し合ったんだけどね、望美ちゃんがあんなふうに出て行ったら、仕事が手に付かなくなるのも無理ないよね〜。それに、出発前に弁慶が意図的に仕事を増やしていった節もあるし」
「なっ!? どれだけ卑怯なんだ、あの男は!!」
拳を握って立ち上がった譲を懸命になだめると、景時は続けた。
「そ、それでね、この際、今預けてある仕事はオレのほうで引き取るから、君は望美ちゃんを追っかけていってはどうかな?」
「え……?」
きょとんとしている譲に、景時は微笑む。
「望美ちゃんが出発して、かれこれ1週間だろ? 急いで追えば、帰路につく前に追いつけるよ。君も将臣くんに会ってくるといい」
「で、でも……」
「ここで一人悶々としてても、仕事は進まないし、気持ちは塞ぐ一方だろう? 九郎の許可は取ったし、熊野の湛快さんが一番早い船を出してくれるそうだから」
「湛快さん……って、ヒノエのお父さんですよね?」
記憶をたぐりながら譲が言う。
「うん。事情を話したらね、『息子は節操無しで手が早いから、一刻でも早く追いついたほうがいい…』って、譲くんっ?!」
旅支度を整えるため、一目散に邸の奥に走り込んでいった譲の背中を見ながら、景時は苦笑いした。
「……よっぽど悩んでたんだなあ……」
素直で真面目で、常に自分を律しようとする譲のことを、景時は弟のように思っていた。
今回はその弟のために、一肌脱いだ形である。
ふと、譲が残していくことになる書類に視線が止まった。
弁慶の策謀もあって、うずたかく積まれた紙の束。
「しばらくは寝る暇、ないかもしれないな〜」
そう呟いて、鼻歌まじりに書類の整理を始めるのだった。
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