郡山城(広島県安芸高田市)
毛利元就と一族の墓所は、彼が本拠地とした郡山城址にあります。
鎌倉幕府創設に功のあった大江広元を祖とする毛利氏は、それを誇りとし、墓標には代々、毛利ではなく大江姓を刻んだそうです。
元就の場合は、墓標の代わりにハリイブキの木が植えられました(上)が、残念ながら現在は枯れてしまっています。
手前の石灯籠には、毛利家が関ヶ原で敗退した後、この地を治めた浅野家が寄贈したものもあるそうです(正確には、毛利と浅野の間に福島正則が入ります)。
浅野家は明治維新まで安芸の藩主であり続けましたが、毛利家発祥の地である安芸吉田には常に敬意をもって接したとのこと。
ちなみにこの浅野家の分家筋が播磨赤穂の浅野家となります。
郡山城址の入り口(上左)。
安芸高田市歴史民族博物館のすぐ裏手にあります。
ここから少し上ったところにあるのが、上右の元就火葬場伝承地です。
1571年、75歳のときに御里屋敷で生涯を閉じた元就は、初七日の法会後、6月20日にこの地で火葬されたと伝えられています。
その際は10間(18メートル)四方に小石を敷き詰め、沈香を焚いたため、香りが遠くまで匂ったそうです。
ガイドさんのお話だと、火葬のほうがお金がかかるので、それだけ手厚く葬られたということだとか。
郡山城址の敷地内(上左)はとてもきれいに整備されていますが、これは1997年、毛利元就生誕500年の年にNHK大河ドラマで『毛利元就』が放映された際の遺産。
それまでは墓所までの道もかなり荒れていたとのことです。
上右は墓所に続く参道の鳥居。
かなり暑い日だったのですが、この鳥居をくぐったとたん清浄なひんやりとした空気に包まれたのが不思議でした。
奥に見える山は、左が青山、右が光井山で、青光井山と総称されています。
尼子詮久が三万の軍を率いて郡山城を攻めた際、陣所を置いた場所で、二つの山の間の町並みが広がる場所が主戦場だったそうです。
山上には曲輪がたくさん残されているとか。
参道の風景(上左)と毛利元就墓所に続く階段(上右)。
左の写真には見覚えのある人が写っている気がしますが、どうかお気になさいませんように(笑)。
墓所に続く階段のそばには、洞春寺跡の表示もありました。
この寺は元就の三回忌に孫の輝元が菩提寺として建立、後に広島、山口、萩へと移されたのだそうです。
元就の墓の一段下には毛利一族の墓所があり、郡山城初代城主の毛利時親から八代豊元、元就の兄興元とその子幸松丸、さらには早世した元就の長男、隆元の妻が眠っています。
隆元の墓所のみもう少し手前の菩提寺常栄寺跡にあるとのことで、立ち寄ることはできませんでした。
元就の墓の正面にあるのが、有名な「百万一心」の記念碑です。
城の拡張工事の際、何度積んでも崩れてしまう石垣があったため、人柱を立てようとするのを元就が止めて、代わりに「百万一心」と刻んだ礎石を埋めさせたという逸話にちなんでいます。
百万一心とは「一日一力一心」とも読め、「国人が皆で力を合わせれば、何事も成し得る」という意味だとか。
この城の麓にある三矢の訓跡碑といい、元就は領民や一族の結束を重視した武将だったようですね。
それを捨て駒と解釈するかはまた微妙ですが……(^_^;)。
父と兄が酒に溺れて早世したため、元就は酒を口にすることがほとんどなかったそうですが、嫡男隆元が毒殺と疑われる急死を遂げた際のみ、痛飲したと伝えられています。