安芸高田市歴史民族博物館(広島県安芸高田市)
2011年9月3日〜4日に行われた「戦国BASARA 毛利軍ツアー!」で、最初に訪れたのがこの安芸高田市歴史民族博物館です。
超大型台風が襲来している中、奇蹟的に晴れたとはいえ、初日に予定されていた厳島へのフェリーは運行停止となったため、急遽日程が変更となりました。
大変だったのは博物館の学芸員さん!(写真の左端の方です)。
ほとんど寝ないで毛利元就の特別展示を用意していたのに、さらに日程が繰り上がって死ぬ目にあったようです。
おかげで充実した展示を見ることができました。ありがとうございました!
ちなみに、学芸員さんが元就さん、その後ろの方が長男の隆元さん、そして足軽(捨て駒)さんで、女性二人はおもてなし武将隊として応募してくださったのだそうです。
ツアー客全員、とっても盛り上がりました。
学芸員さんはほら貝まで吹いてくださったんですよ〜!
おもてなし武将隊のアップ(上左)。
日程変更のために駆けつけられなかった方もいらしたとか。本当にありがとうございました。
博物館の中が毛利家の家紋だらけで、ファンにはたまりませんでした。
この博物館は、毛利家が城を構えた安芸吉田の地にあります。
14世紀前半にこの地に築かれた小さな砦を、元就は上右の図のように全山規模に拡張し、本丸、二の丸、三の丸を備えた大規模な山城としました。
ゲームのせいで何となく厳島神社にいつもいるような気がしますが(笑)、彼の居館はこの地にあったんですよ〜。
安芸の国人領主、毛利弘元の次男として生まれた元就(幼名:松寿丸)は5歳で母を、10歳で父を亡くし、父の側室である杉大方の庇護の下、育ちました。
家督を相続した兄、興元が24歳で亡くなり、その子幸松丸がわずか2歳で後継となると、後見役として表舞台に登場。21歳のときに初陣である有田の合戦で勝利し、安芸の守護武田元繁を討ち取ります。
この安芸武田氏との戦いは「西国の桶狭間」と呼ばれるほど、中国地方の勢力図を大きく塗り替えるきっかけとなるものでした(この戦で生き残った安芸武田一族の竹若丸は、後に外交僧として毛利家に仕えます→こちら)。
幸松丸が9歳で亡くなった後、家督を相続し、安芸吉田の郡山城に入城します。
この相続を面白く思わない一部の家臣と、中国地方の一大勢力である尼子氏が、元就の異母弟をかついで謀反を企てますが、これを見事に鎮圧。
尼子氏と並ぶ勢力である大内氏と結んで、周辺の領主と戦ったり、和睦したりして毛利家の支配地域を拡大しました。
1540年に尼子詮久率いる3万の大群が郡山城を攻めますが、元就はわずか3000人の兵でこれを迎撃、尼子軍を出雲に追い返すことに成功しています。
この際に書かれた「毛利元就郡山籠城日記」の複製も博物館で見ることができました。
元就は生涯を通じて、寡兵で大軍に勝つ戦を得意としていたようです。
博物館内には上のような毛利家の家紋入り兜が置かれていて、自由にかぶって記念写真を撮ることができました。
その隣のスペースでは、毛利一族が代々篤く信仰した、地元清神社(すがじんじゃ)のお祓いを受けた「必勝祈願 三矢の訓」箸とか、手作り感満載の三本の矢ポーチとか(写真はこちら)、ゆかりの品を職員の方および地元の方総出で販売してくださって、これまたとてもうれしかったです!
学芸員さんはこの日のためにちゃんと戦国BASARAをプレイしてくださって、ゲームの元就さまを踏まえた上で史実を説明してくださったのがとても楽しかったです。
とにかく手紙が長い!ことで有名な元就ですが、三矢の訓伝説のもとになったと言われる「三矢教訓状」の複製も博物館に飾られていました。
毛利隆元、小早川隆景、吉川元春の三兄弟(次男と三男はそれぞれ小早川と吉川に養子に入った)に、とにかく力を合わせて毛利の家を守ること、彼らの妹の嫁ぎ先である宍戸氏のことも気遣うこと、ほかの子供たちは、優秀なら取り立てるべきだがどうせたいしたことないから好きにしていいこと(←ヒドイ)、さらには今生の願いを日輪に祈ること、厳島神社を篤く信仰すること、などが延々と書き連ねられていて、ファン的には喜びの舞を踊りたいくらい!
でも、こういう書状を頻繁に送られた息子たちは、ちょっと鬱陶しかったんじゃないかな(笑)。
博物館の裏にある「少年自然の家」(下右)は、元就の居館、御里屋敷跡と言われているそうです。
戦のないときには、この里の屋敷で暮らしていたのでしょう。
そこに立てられているのが「三矢の訓跡碑」(上)です。
有名な三矢の訓伝説は、上記のように元就の書簡の内容から生まれたものと言われていますが、やっぱりこういう碑があると、観光客も納得しやすい(笑)。
同じ敷地内に、毛利元就像もあります(下左)。
この安芸吉田の民家には、瓦屋根の上に特徴的な飾りが見られます(下)。
魚や船など、海や水に関係のあるものを屋根に飾って、火除けとしているのだそうです。
神社仏閣では見かけることがありますが、一般のお宅にこれだけ普及しているのを見ると、古い歴史のある街なんだなあとあらためて感じさせられます。