BASARAゆかりのスポット巡り


建仁寺(京都府京都市東山区)

 

毛利元就に1541年に攻め滅ぼされた安芸武田氏の一族に、武田信重の子、竹若丸がいました。
彼は家臣の手で安芸の安国寺に預けられ、そこで出家して恵瓊(えけい)となります。
後に京都・東福寺竺雲恵心の弟子となると、毛利家恵心に帰依していた関係で、毛利家に仕える外交僧の役割が回ってきます。
戦国の常とはいえ、皮肉な巡り合わせです。
当時、僧侶は最高の知識人で、武将の子弟の教育を担当することも多かったため、武将の参謀役を務めることが多かったそうです。

恵瓊は1599年に、安芸の安国寺にあった方丈を、京都・建仁寺に移築しました。
その縁で、彼の墓(上)は現在、建仁寺にあります。

 

恵瓊が移築した方丈(上左)と、○△□乃庭(上右)
この方丈は、1934年の室戸台風で一度倒壊し、1940年に再建されたそうです
確かに台風に弱そうな構造ですね

○△□乃庭は、井戸の、木の根元の、その奥のちょっと見えにくいですが一段高く作られているの図形で、それぞれ(□)、(○)、(△)を表し、宇宙の根源的形態を示しているそうです

恵瓊が表舞台にわかりやすい形で出てくるのは、秀吉が1582年に備中高松城を水攻めした際です。

この時点で毛利家元就さんの孫、輝元に代替わりしていますが、信長が追放した将軍、足利義昭を保護し、反信長勢力である石山本願寺と同盟したため、信長との関係が悪化。
信長の命を受けた秀吉が中国攻めを開始し、その仕上げとして、毛利家家臣清水宗治が守る備中高松城を取り囲んだのでした。

領土の割譲に加え、城兵の生命保全を求める毛利と、城主の切腹を求める秀吉の間を行き来し、ついに和睦を成立させた恵瓊秀吉側の交渉役は黒田官兵衛)。
しかし実はその時点で、京では本能寺の変が勃発していました。

講和成立後ただちに秀吉は京に取って返し、約200キロをわずか10日で踏破して山崎の戦い明智光秀を討ち取ることになります。

 

潮音庭(上左)と、庭に面した縁側(上右)。
この庭は「四方正面の庭」と呼ばれ、紅葉の風景は京都のポスターにも登場します。

毛利家の交渉役を通じて秀吉に手腕を認められた恵瓊は、やがて秀吉側近となり、ついには伊予六万石の大名に出世します。
戦場に兵を率いて出陣することも度々でした。

秀吉の死後、懇意にしていた石田三成と結んで、毛利家の当主、毛利輝元を関ヶ原における西軍の総大将に据えますが、敗走。
京都で捕縛され、六条河原で斬首された後、石田三成、小西行長とともに首が晒されました。

実は、建仁寺にあるのはその首塚です。
安芸の安国寺(現在の名称は不動院)にも墓があるそうです。

それにしても関ヶ原で若く美しい元就さんを戦わせる『戦国BASARA』って……素晴らしいわ。