<前のページ  
 

薫風渡る海 ( 2 / 3 )

 



翌日から、伊予の水軍のアジトは大変な騒ぎになった。

翡翠の許可の下、ありとあらゆるところを巡察して回る国守の容赦ない質問攻めから逃れられる者などいなかった。

アジト内の見取り図を独自に描き、場所ごとの機能、備えている設備、任に就いている手下の数、果ては船を係留している入り江の海底の地形まで探ろうとする。

そして彼の尽きせぬ興味は、海賊が用いない「あるもの」に向いたようだった。




「外海(そとうみ)を長距離航行する場合は、使わないこともないが」

自分に向けられた思慮深い瞳を見返しながら、翡翠は口を開く。

「内海(うちうみ)ではむしろ、操船が困難になる。
そもそも風の影響を受けすぎるからね」

「横帆だけを用いればそうでしょうが、縦帆は理論的には向かい風に対しても進むことが可能です。
推進力を人力にだけ頼っていては、輸送量の拡大は不可能でしょう?」

アジトの一室。

簡単な線で描かれた船の図を挟んで、先ほどから二人は話し合っていた。




「たとえばこういう物を立てる訳にはいかないのでしょうか?」

幸鷹は筆を取ると、後世で言うマストと、ラグセイルを描いてみせる。

「この部分を支柱として、左右に回転できるように作れば、この角度までの風を推進力に使うことができます」

「……ほう」

「なぜ翡翠の船団は帆を使わないのか」という幸鷹の問いがそもそもの発端だった。

瀬戸内では一日のうちに、海から陸への風と陸から海への風が必ず吹く。

規則性を持った自然現象を利用しないのはいかにももったいない、と彼は主張したのだ。

「確かに研究の余地はあるようだ」

描かれた図を吟味すると、翡翠はつぶやいた。

「これがうまく行けば、漁師や商人たちの船にも技術を伝えることができるでしょう」

「なるほど。
私たちに試行錯誤させて、うまくいったら技術を召し上げるわけかい」

「あなた方にも、損はないはずです」




視線が正面からぶつかりあう。

目を合わせたまま、翡翠はクスリと笑った。

「本当に、君は変わった男だね、国守殿」

「あなたに言われたくはありません」

再びぶつかりあう視線。

「……違いない」

幸鷹から絵図を受け取ると、翡翠は背を向けて部屋を出て行った。



* * *



波が船縁に打ちつけている。

幸鷹がこの島に来てから、すでに六日がたっていた。

雲一つない空は遠く高く彼方まで澄み渡り、降り注ぐ陽光は青い海にキラキラと宝玉をちりばめている。

「……今日も素晴らしい航海日和ですね」

無粋な目隠しに視界を遮られながらも、幸鷹はつぶやいた。

時間の長短はあれ、船には毎日乗っていた。

海風と時折顔にかかる波しぶきに、心が躍る思いがする。




「昨日までに比べて波が高い。せいぜい落ちないように気をつけたまえ」

出港時の作業を終え、船尾楼に上がってきた翡翠が言った。

「君の場合、一巻の終わりになってしまうからね、貴族殿」

「! 確かに、泳いだことはありませんが……」

そう言っているそばから、船が大きく揺れた。

「!!」

幸鷹は、とっさに手近な船縁にしがみつく。

翡翠はそれを悠々と見守った。

「賢明だ。私の腕は美しい姫君を支えるためのものだから」

「最初からあなたをあてになどしていません!」

吐き捨てるように言うと、幸鷹は船縁に注意深く身を沈めた。




太陽が中天に昇り、青さを含む、初夏の風が海上を吹き抜ける。

瀬戸内海の海流を知り尽くした水夫(かこ)たちは、巧みに櫂を操り、船は水面を滑るように進んでいた。

「……このような風は、陸では味わえませんね」

ようやく目隠しを外された幸鷹が、ポツリとつぶやく。

明日の期限を前に、まるで残された時間を惜しむような声だった。




「この季節の航海は一番快適だからね。
私が初めて船に乗ったのも同じ時期だ。
生まれてからちょうど十年目の皐月の二十四日に、父は私に海を教えた」

長い髪を無造作になびかせながら、翡翠が言う。

「生まれてから? つまり、十歳の誕生日に……ということですか? 
それはずいぶんと早いですね。
海には危険なことも多いというの……」

幸鷹の声が途切れた。

翡翠が興味深げに見守っていると、勢いよく立ち上がって近づいてくる。




「今日ではないですか、皐月の二十四日! それは、おめでとうございます」

「……どういう意味だい?」

「誕生日なのでしょう? さすがにここでは祝いの品は用意できませんが」

残念そうに辺りを見渡すと、幸鷹は言った。

「後で何か届けさせるようにしましょう。
『合法な物』で、もし所望されるものがあれば何でもおっしゃってください。
できる範囲で用意いたします」

翡翠はその瞳をじっと見つめる。

「藤原の家にはそういう習わしがあるのかい」

「……え」

幸鷹の表情が固まった。

「生まれた日まで祝うとは、ずいぶんと雅なことだ」

「…………!」




ひとつため息をつき、「残念ながら、我ら海賊にそんな暇は……」と、皮肉をぶつけようとして、翡翠は目の前の青年の顔色に気づいた。




「国守殿?」

「……いえ……いえ、そのような習慣は……」

立ち尽くし、蒼白な額に脂汗を浮かべている。

船の大きな揺れに合わせ、彼はフラフラと後ずさりした。

「幸鷹殿! 何をしている?!」

翡翠は手を差し伸べた。

が、激しい頭痛に襲われているらしい幸鷹は、両手で頭を抱え込み、そのまま後ろへと倒れていく。

「幸鷹…!!」

船縁を越え、紺碧の海へと。




刹那。

シュルッという鋭い音とともに、幸鷹の片腕が捕らえられた。

高い船尾楼から宙吊りになる身体。

翡翠の投げた流星錘がしっかりと絡み付いている。

「幸鷹殿! しっかりしたまえ! 目を開くんだ!!」

翡翠が身を乗り出して叫ぶ。

「幸鷹殿!! 幸鷹!!」

ピクリと頭が動き、朦朧とした瞳がゆっくりと開かれた。




その瞳を覗き込むように、翡翠が声をかける。

「両腕で綱を掴みなさい! そのままでは肩が抜ける。
私の声が聞こえるね?」

「……掴…む」

「左腕を上げて、右腕の位置に持っていきなさい」

眉間に皺を寄せ、ブルブルと頭を振った後、幸鷹は腕を上に伸ばした。

両手がしっかりと手がかりを掴むと、翡翠は慎重に綱を送り出す。

海上で待ち構えていた手下たちが、小舟に幸鷹を助け下ろした。

安堵のため息とともに、翡翠は流星錘を回収した。





 
<前のページ