薫風渡る海 ( 1 / 3 )

 



五月と言っても、すっかり初夏の気配が漂う伊予。

いつものように泊(とまり)に翡翠を訪ねた幸鷹は、元海賊たちの帰農と開墾の状況を報告し、これまたいつものように翡翠に海賊をやめるよう進言した。

呆れたように翡翠がため息をつく。

「やれやれ、よくも飽きないものだ」

「飽きる飽きないの問題ではありません」

大真面目に言う幸鷹を、翡翠はじっと見つめた。




「何ですか、ジロジロと」

「……国守殿は海に出たことがあるのかな」

「海? 伊予に渡るときに船は使いましたが……」

「この海の広さを知らない者に、海を求める気持ちは理解できないと、私は思うのだが」

カチンと来た幸鷹は、思わず身を乗り出した。

「ならば私が海をしっかりと知ったなら、あなたは私の言葉に耳を貸すのですか」

翡翠は面倒くさそうに髪をかきあげる。

「そうだねえ、今よりは、そういう気になるやもしれない」

「!!」




「お頭」

手下に呼ばれて翡翠が船に乗り込むと、桟橋に残った幸鷹は独り真剣に考え込んだ。

国守である自分が、海賊船に乗ることの問題点。

それによって、事態が打開できる可能性。

何より、海賊たちがどのように海上で過ごしているかを知る絶好の機会の到来。

天秤はあっけなく一方に傾き、幸鷹は決意をみなぎらせて顔を上げた。




「決心がついたようだね」

ちょうど戻ってきた翡翠が、愉快そうにつぶやく。

「はい、いったん国衙(こくが)に戻り、不在の間の手配をして参ります」

「それは海賊流とは言えないな」

「……は?」

言うなり翡翠はいきなり幸鷹を抱え上げ、雲を突くような大男の部下にドサリと投げ渡した。

「な!? 翡翠っ!! 何をするのです!!??」

「お付きの諸君、国守殿はしばらくこの翡翠がお預かりする。
もちろん、本人の合意の下に、ね」

「若様!!」

「国守様!!」

幸鷹に付き従ってきた数人の部下たちが太刀を抜き、翡翠の手下たちも得物を構えたため、泊は殺伐とした空気に包まれた。




「ま、待ちなさい! 皆、太刀を収めなさい」

手足を大男に押さえられながらも、幸鷹が凛とした声で言い放つ。

「しかし、若様!」

「乱暴は許しません。翡翠、わかりましたから私を下ろしなさい」

「残念ながら、君にはそのまま船に乗り込んでもらうよ」

「!!」

火花が散る勢いで、二人の視線がぶつかる。

翡翠は不敵に微笑むと、幸鷹の部下たちに向き直った。

「今日から七日ほど、国守殿をお借りしよう。
海に生きる者の気持ちを知りたいと仰せだからね」

「な、七日?!」

幸鷹が思わず叫ぶ。

「あまり長くお借りすると、京が新しい国守を送り込みかねない。
その辺りが限界だろう」

「長過ぎます!! 翡翠! 少しは人の話を……!!」

暴れる幸鷹を船尾楼の中に担ぎ込ませると、翡翠は桟橋に残っている部下たちに

「大丈夫。傷一つ付けずにお帰しするよ」

と声をかけ、さっさと艢綱(ともづな)を解いた。




「わ、若様〜!!」

「国守様〜〜!!!」

残された供の者たちの叫び声だけが、船が出た後の泊に響いたのだった。



* * *



「意味がわからない! 
普通に船に乗せればいいだけの話ではないか」

幸鷹は甲板の上をイライラと行ったり来たりしながら言った。

「おやおや、国守殿は海賊に何を期待しておいでかな」

翡翠は船縁にもたれながら、ゆったりと応える。

沖を行く船の甲板には、二人以外の影はなかった。

「ちゃんと話せば皆に心配をかけることなどないでしょう! 
おまえは余計な摩擦を生み過ぎです」

正面に立ちはだかって非難する幸鷹を見て、翡翠はクスクスと笑った。

「何がおかしいのです!」

「海賊の追捕が君の使命だろう?
その私とちゃんと話し合う訳にはいかないと思うのだが」

「! それは……そうですが」




鮮やかな紅色をした絹布を手に、翡翠は立ち上がった。

「まあ、伊予の海賊にかどわかされて、七日ほど監禁されたということにしたまえ。
そのほうが京に戻ってから、箔もつくだろう?」

「そんな箔など……。それは何です?」

翡翠が自分の後ろに回り込んだのを見て、幸鷹が尋ねる。

「アジトの所在地を国守に知られる訳にはいかないからね。
着くまで目隠しをさせてもらうよ」

「だからどうしてそんな派手な物で?!
おまえ、絶対に楽しんでいるでしょう?!!」

翡翠は含み笑いをするだけで答えず、幸鷹の眼を手際よく布で覆った。




ギーギーと、船を漕ぐ規則的な音が聞こえてくる。

甲板で海風に吹かれながら、幸鷹は聴覚に神経を集中させていた。

「……ところで国守殿」

「何ですか」

「君は伊予に渡るとき、苦労はしなかったのかね」

目隠しをしたまま、幸鷹は顔を傾げる。

「……苦労? 
天候にも恵まれ、これといった問題もありませんでしたが」

「なるほど」

「なぜですか?」

「だとしたら君は、世にも稀なる身体の持ち主ということになる」

「???」




翡翠は幸鷹と向かい合って座っていた積み荷から腰を上げ、船縁に手を着いた。

「船に乗りつけていない人間は揺れに耐えられず、たいてい酔ってしまうものなのだよ。
そのように目隠しをされていたら、なおさらね」

「おまえはそれをわかっていて目隠ししましたね!」

「船酔いも海に生きる者を理解するには、経験すべきことだからね」

しらっと言われて、幸鷹はそれ以上怒る気にもならなかった。




波が作り出す上下左右の複雑な揺らぎ。

内臓ごと絶えず動かし続けられる経験は、確かにそうそうできるものではない。

だが

(知っている……。私は確かに、この感覚を……)

波のリズムにいつしかまどろみながら、幸鷹は遠い記憶の扉を少しだけ開いていた。

(あれがドーバーのチョークのように白い崖、そしてその上にそびえ立つ、廃墟となった城、港を飛び交うカモメ、フェリー埠頭の人々……)




「幸鷹殿……?」

急に黙り込んだ幸鷹の肩に手をかけると、翡翠は低く呼びかけた。

そして、寝息に気づき、小さく息を吐く。

「……まったく……。たいした度胸だ、国守殿」

用なしになった絹布をシュルリとほどくと、眠る幸鷹に広い肩を貸すのだった。