「花梨さん、先ほどは落ち着いてお見送りすることもできず、申し訳ありませんでした」

「そんな。わざわざお父様に家まで送っていただいて、私のほうこそ申し訳なかったです。
車の中でも何度もお礼を言われちゃって、ちょっと困っちゃったくらいで」

「………もし、よろしければ、私とまたお会いいただけますか?」

「ゆ、幸鷹さん! その言い方!!」

「……すみません。では、いつお会いいただけますか?」

「明日!って言いたいけど、ご家族の方との都合がありますよね。
土曜日……とか?」

「はい。では、前日に電話をいれますね」

「だめです」

「はい?」

「私、毎日メールしますから、絶対にお返事ください!」

「……わかりました。そういうものなのですか?」

「そういうものなんです!」

クスッと笑い声が聞こえた。

「では、私からもメールを……いえ、お電話をいれさせていただきます。
やはりあなたのお声を聞きたいですから」

「幸鷹さん……」

「今日はお疲れになったでしょう。どうかゆっくりお休みください」

「幸鷹さんこそ……。ぐっすり眠ってくださいね」

「……よい夢を。私の神子殿」

「!!」

切れた携帯電話を片手に、花梨は熟した柿のように真っ赤になった。







帰還 3






週末。

よく晴れた昼下がり、花梨は幸鷹の家への道を辿っていた。

先日は途中から車に乗ってしまったので、残りの道筋は幸鷹からのメールが頼りだ。

経路マップのURL付きのそのメールを見て、花梨は幸鷹がすごい勢いで8年のギャップを埋めていることを知った。

「もともと頭のいい人だから……きっとあっという間……だよね」




つぶやいた後、小さくため息をつく。

ちっぽけで平凡な女子高生。

龍神の神子でなくなった今の自分に、幸鷹とつりあう部分など何もない。

帰ってきて時間がたつにつれ、その思いが花梨を苛み始めていた。

もちろん、一緒に帰ってきたこと、幸鷹が家族と再会できたことを後悔する気などまったくない。

しかし、この日常空間の中で、きっと自分は見る間に価値を失ってしまうだろう。

「……それでも……幸鷹さんと会えて、ちょっとの間だけでも、恋人っぽくなれたんだから……」

京でともに過ごした日々、幸鷹のさまざまな表情、優しい声、抱き締められた感覚……。

花梨の身体の中を、色鮮やかな思い出が通り過ぎて行く。

暗く翳りがちになる表情を、両手でパンッと頬を叩いて引き締めた。

「だめだめ! 今日はあのことを確かめに来たんだから! 
それだけはちゃんとしなきゃ!」

大きく息を吸い込むと、再び歩き始めた。



* * *



「いらっしゃい、花梨さん。道はすぐわかった?」

チャイムに応えて、玄関の扉を開いたのは幸鷹の母だった。

「はい! 
幸鷹さんのメールがわかりやすかったので、全然迷いませんでした」

明るく答えると、幸鷹の母の顔が少し曇った。

「……ごめんなさいね。
本当は駅まで迎えに行くのが当然なのに、私が……」

「母はまだ、私を一人で外出させるのが怖いのですよ」

涼やかで穏やかな声が響く。

広い玄関ホールの廊下に、幸鷹が立っていた。




その途端、花梨は言葉を失う。

ここに来る前は、幸鷹のことをあきらめなければならないかもしれない、そんなことになっても、ちゃんと現実を受け入れなければ……と自分に言い聞かせていたのに。

「……花梨さん?」

問いかけるように見つめられ、花梨はわれにかえる。

「……あ、な、何か久しぶりだなって思って……」

「そうですね。声は毎日聞いていましたが、やはり直にお会いするのが一番いい」

微笑みながら花梨の手を取ると、家の中へと導いた。



* * *



手作りらしいティーケーキと、香り高い紅茶をテーブルに置くと、「では、ごゆっくり」と、幸鷹の母はリビングから出ようとした。

そしてふと気づいたように、

「幸鷹、後で花梨さんにあなたの部屋をお見せしたら?」

と言い添える。

「幸鷹さんのお部屋?」

「正確には、15歳まで使っていた部屋……ですが」

幸鷹は苦笑しながら説明した。

「長期休暇中に使っていた部屋に、向こうから送った荷物も入れて残してあるのです。
ですから、ちょっとしたタイムカプセルになっていますね」

「……幸鷹さんの、15歳……」

「私にもそんなかわいげのある時代があったのですよ。
信じ難いかもしれませんが」

「そんなこと……!」




赤くなって否定する花梨を、幸鷹はこの上なく優しいまなざしで見つめた。

その瞳を見て、花梨の胸がズキンと痛む。

だめなのかな。あきらめなきゃいけないのかな。

こんなに好きなのに。こんなに離れ難いのに。




「あ、あの後、いろいろ大変だったんじゃありませんか? 
電話ではあんまり聞けなかったけど、今週はどんなことしていたんですか?」

明るいトーンで切り出した花梨を、幸鷹はじっと見つめた。

「……そうですね。まずは実際に起きたことを、すべて父母に話しました。
その上でどう現実に対応するか、専門家を招いていろいろと相談しました」

「専門家?」

「警察に出していた捜索願を取り下げたり、説明の必要があることが多いですからね。
弁護士や医師や、両親の知り合いを総動員してつじつま合わせですよ。
ああ、興味深かったのは日本史の教授との対面です」

日本史がどう関係あるのだろう、と、花梨は首を傾げた。




「念のため……と両親は言っていましたが、やはり私の話をにわかには信じ難かったのでしょう。平安時代の専門家を呼んだのです。
もちろん、その教授も最初は疑わしげにいろいろと問いただしてきましたが……」

「が……?」

くすっと幸鷹は笑った。

「途中から私の話に夢中になってしまいました。
日ごろ疑問に思っていたことをどんどん質問していらして……。
結果的に、彼の研究にはかなり貢献できたようですね」

「それはそうですよね! 平安時代の人に直接質問できるんだから」

花梨も一緒になって笑った。

幸鷹といる時間は、うれしくて、楽しくて、………。




カタンと音がして、次の瞬間、幸鷹の顔がすぐそばにあった。

「!?」

「……いったいどうなさったのですか、花梨さん」

テーブルを挟んで座っていたはずの幸鷹が、花梨の頬に手を添え、至近距離から見つめている。

「ゆ、幸鷹さ……」

「今日のあなたは、微笑んでいてもまるで泣いているようだ。
何かあったのですか?」

図星を突かれて、花梨は言葉を失う。

大好きな瞳、大好きな声、大好きな人があまりに大切すぎて……。

「なぜ、涙を……」

「ごめんなさい。私……」

顔を背けようとしたその時。




かすかに空気が揺らぎ、唇が柔らかく重なった。

一瞬驚いた花梨は、身を離そうとする。

だが、涙を拭う幸鷹の指の優しい動きが、張りつめた心を次第に解きほぐしていった。

身を委ねるように、ゆっくりと目を閉じる。

花梨を抱き締め、髪を撫でながら幸鷹は繰り返し口づけた。

甘やかなしばしの沈黙。

花梨を胸に抱いたまま、幸鷹は囁くように尋ねる。

「……なぜ哀しいのですか?」

「私……私、もう龍神の神子じゃない……」

「……だから……?」

「幸鷹さんにそばにいてもらう資格なんて……ないです……」

「……!」

抱き締める腕に、力がこもった。

そして、弛緩。

「……花梨さん、少しおつきあいいただけますか?」

幸鷹は花梨を助け起こすように立ちあがると、リビングのドアを開けた。