ほしい言葉
千尋にはひとつ不満があった。
数カ月にもわたる交渉の末、ようやく狭井君の了承を得て、千尋と忍人の婚儀は来春にも行われようとしている。
二人の周辺の人々は、彼らを婚約者同士として扱い、一日の執務を終えた忍人が千尋の部屋に立ち寄ることも多くなった。
彼女は今、愛する人との結婚を待つ幸せな婚約者……のはずなのだが。
「何かあったのか?」
千尋の膨れっ面を見て、忍人は尋ねた。
千尋が王となった後、大将軍に任じられたにもかかわらず、彼の服装は以前と同じく、限りなくシンプルだ。
鞭のようにしなやかな身体を、千尋の居室の長椅子の背にもたれかけさせている。
その横にちょこんと座る千尋は、何事かを思い詰めている様子だった。
「……俺がいると邪魔なら…」
「じゃ、邪魔なわけないじゃないですか!」
今にも立ち上がりそうな忍人の襟元をつかんで、千尋は彼を正面から見つめる。
その迫力に、忍人も多少たじたじとなった。
「……ならいいが」
「忍人さん」
「何だ?」
目がマジで怖い。
「私たちは来春に結婚するんですよ」
「……ああ」
「………どうしてですか?」
「……?……」
「……………」
「???????」
「……………」
「……すまないが、君の言いたいことがわからない」
ガタン!と長椅子を揺らして立ち上がると、千尋は寝室に走り込んだ。
「千尋!」
慌てて忍人がその後を追う。
千尋は寝台に泣き伏せていた。
声は上げていないが、背中が震えている。
忍人は立ち止まり、少しためらった後、彼女の肩に手を掛けた。
「……すまない。本当にわからないんだ。俺はどうすればいい……?」
普段とは違う不安げな声だった。
しばらく肩を震わせた後、涙で濡れた顔がようやく上がった。
忍人は寝台に腰掛け、やさしく彼女を抱き寄せる。
「……忍人さんは……」
胸の中で、千尋がぽつりと言った。
「……どうして私と結婚してくれるんですか……」
いきなりの質問に、忍人は頭の中が白くなる。
「……千尋?」
「だって……」
千尋がうつむく。
「……一度も言ってくれないんだもん」
「……………」
何かがカチリとはまったような気がした。
「……俺は……言っていなかったのか?」
こくんと千尋がうなずいた。
「……そうか。とっくに伝えたつもりでいた」
「……こんなの……ただの……わがままかもしれないけれど……」
千尋がモジモジしながら応える。
「いや。豊葦原は言霊が力をもつ場所だ---遅くなってすまない」
忍人は千尋の頬を両手で包むと、自分のほうを向かせた。
そして、彼女の目をまっすぐに見て言う。
「千尋、俺は君を愛している」
千尋の目が驚きで見開かれた。
こんなにストレートに言われるとは予想していなかったのか、顔の温度が一気に上がる。
その反応を見て、忍人が心配そうに言った。
「……何かまずかったか?」
ブルンブルンと顔が左右に振られる。
「あ、ありがとうございます、忍人さん」
ほっと一息つき、今にもこぼれそうな千尋の涙を指で止めると、
「では、君の番だ」
と生真面目に見つめた。
「え」
「俺も君に言われていない」
「う、うそ」
「『ずっと一緒にいてください』と言われただけだ」
「そ、そうでしたか」
「そうだ」
「…………」
「千尋」
「…………」
ばっと、真っ赤な顔が上がり
「私は忍人さんを愛しています。誰よりも、いつまでも、ずっとずっと愛しています」
と、一気に言った。
今度は、忍人の顔が染まる。
「……ありがとう」
言った千尋のほうも、恥ずかしさで消え入りそうになっていた。
「愛している」
「愛しています」
「絶対に離さない」
「ずっと一緒にいさせて」
「君とともに生きていきたい」
「あなたといることが一番の幸せ」
「………」
「………」
唇が重なったため、それ以上の言葉は聞こえなくなった。
その後は、言葉では伝えられないことを、心の底からの愛を、二人はゆっくりと確かめ合った。
「………」
「………」
「………」
「………」
「お、忍人さん、それ以上は駄目です」
「なぜだ」
「風早が、結婚するまでそういうことはしちゃいけないって言ったんです」
「そうなのか」
「そうなんです」
「……ならば仕方がない」
「はい」
いきなり忍人が立ち上がる。
「忍人さん?」
「風早に交渉してくる」
「え?」
まっすぐに背を伸ばし、部屋を立ち去る忍人の後ろ姿を、千尋は呆然と見送った。
「……交渉って……」
数分後。
風早の部屋。
「駄目です、忍人」
「しかし……!」
「結婚するまで待てなくてどうするんですか」
「だが……!」
「そんなこと言うと、式まで会わせませんよ」
「それは困る」
「なら我慢しなさい」
「……………」
「どうかしましたか?」
「……それは……ただの嫌がらせか」
「廊下に立たせますよ?」
こちらの交渉は、何カ月かけてもうまくいかなかったという。
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