星は刹那の久遠
「風早、二ノ姫はどうかしたのか?」
忍人の私室を訪れ、仕事の打ち合わせをてきぱきと済ませた風早に、部屋の主は怪訝そうな顔で尋ねた。
「え、千尋ですか? どこかで見かけました?」
「ああ、今日、回廊の向こうを歩いている姿を見た。俺に気づいてこちらを見たんだが……何と言えばいいのか、ひどく情けない表情をしていた」
ぷっと風早がふき出す。
「笑いごとではない。来春の即位式を前に、姫は目が回るほどの忙しさだとお前も言っていただろう? どこか身体の調子でも悪いんじゃないのか」
「確かに忙しさが原因ではありますが……。忍人、君はもう宮の中を歩くのに支障はないんですね?」
「当たり前だ。何カ月静養させられたと思っている」
不満そうに腕を組んで忍人は答えた。
禍日神との戦いに勝利し、豊葦原に戻ってすぐに倒れた彼は、一時は命が危ぶまれるほどの容態だった。
千尋をはじめとする周囲の手厚い看護で徐々に健康を取り戻し、最近では部分的に軍務に復帰しつつある。
一日も早く将軍としての任を果たしたいと望む忍人を押しとどめ、静養を続けさせているのは、ほかならぬ千尋だった。
「じゃあ今夜、かなり遅い時刻になると思いますが、迎えに来ますよ。ちょっと付き合ってくれるかな」
「……? ああ、わかった」
風早の言葉にうなずくと、忍人は手元の竹簡に注意を戻した。
熱心に文字を追う忍人を残して部屋を出ると、風早は誰にともなくつぶやく。
「サプライズ……のほうが盛り上がるでしょう」
* * *
月が夜空に高く上った深夜、風早に連れられて忍人がたどり着いたのは、千尋の私室だった。
「風早……? どういうことだ」
「まあ、千尋の様子を見てやってください。俺を助けると思って」
「意味がわからん。そもそもこんな深夜に」
「俺が迎えに来るまでの間だけですよ。ほら、さっさと入った入った」
風早に無理やり部屋に押し込まれ、しっかりと扉を閉められる。
「……風早なの?」
部屋の奥の掛け布の影から千尋の声が聞こえた。
「いや、俺だ……」
覚悟を決めて応えると、すごい勢いで布が横にはねのけられ千尋が飛び出してくる。
「忍人さん?!」
「すまない。風早に無理やり…… ?! どうしたんだ、その顔……」
真っ赤に泣きはらした千尋の目に、忍人は言葉を失う。
「あ……!」
あわてて掛け布の影に隠れようとする手を、忍人は捉えた。
「……泣いていたのか?」
「ご、ごめんなさい……」
「なぜ謝る」
「だ、だって……」
新たな雫がはらはらと双眸から零れ落ちる。
「私、全然、何もできなくて! 気ばっかり焦って、なのに何も進められなくて……!」
「即位式のことか? それとも執務? 風早や柊にちゃんと相談しているのか?」
「そ、それもだけど、そうじゃなくて。もっともっとできないことが」
「何を?」
「……明後日の……」
「?」
うつむいたまま千尋が小さくつぶやく。
「……お誕生日の用意」
その単語を記憶の中でしばらく探った後、忍人は目を見開いた。
「まさか、俺の……か?」
千尋がこくりとうなずく。
「……君は……」
「ごめんなさい! ……わかってるの、忍人さんにとっては意味のないことだって。私が勝手にお祝いしたいだけだって。でも……大切な人のお誕生日に、何のお祝いもできないのはとてもつらくて……自己嫌悪ばっかりで……どうして私、こんなに要領が悪いんだろうって、空回りする一方で……」
そう言って、千尋は顔を両手に埋めた。
こめかみに指を当て、軽く息を吐くと忍人は口を開く。
「……今の君には、やることが山積しているはずだ。……即位式も近い」
「……ごめんなさい」
「臣下は、王が義務を果たす邪魔をするわけにはいかない」
「……私が勝手に……」
「そうだ。俺がやめろと言っても、君はそうやって勝手に気を回すだろう」
「…………」
「……ならば、明後日の夜、ひとつだけ俺の願いを聞いてくれ」
「……? え……?」
ようやく顔を上げた千尋に、忍人は生真面目な表情を崩さずに続けた。
「何も用意はいらない。ただ、願いを聞いてくれればいい。俺にとってはそれで十分だ」
「え、でも……」
「君にしか叶えられない願いだ。申し分のない誕生祝いになる」
蒼白だった千尋の顔に、徐々に赤みが戻ってくる。
「そ、それはそうですけど、でも、何だかかえって怖いというか……」
「? 怖い? 俺は素振りを1000回させたりはしないぞ」
「ええ?! 願いってそういう種類のものなんですか?!」
「だからそれはさせないと……」
コンコンと軽いノックが響き、部屋の扉の影から風早が顔を出した。
「そろそろいいかな、忍人。ああ、よかった。姫の表情が明るくなりましたね」
そう言われた千尋が頬を染める。
「風早、すまないが二日後にもう一度、俺をここに連れてきてくれるか」
忍人の言葉に、満面の笑顔でうなずく。
「もちろんです。どんな魔法を使ったか知りませんが、千尋はこれで今夜から落ち着いて眠れるかな?」
「風早、知ってたの?」
千尋がさらに赤くなった。
「二ノ姫、君はもっと王としての自覚を持つべきだ。いちいち瑣末なことに気をとられすぎる」
「瑣末じゃないから、悩んでいたんですよ。さあ、忍人、帰る時間です」
本格的に説教を始めそうな将軍の腕をつかんで、風早は千尋の部屋を強引に出る。
「どういう意味だ?」
「教えてあげません」
「風早、貴様……!」
「前を見ないとつまずきますよ」
小さくなる二人の声を聞きながら、
「……願い事って、何だろう……」
と、千尋はつぶやいていた。
* * *
満点の星空が広がる。
風早と忍人に寄ってたかって厚着をさせられた千尋は、白い息を吐きながらうれしそうに星々を見上げた。
「……ええと、外に出る必要が、あったんですよね?」
「そうだな」
それだけ言って、また忍人は無言になる。
風早が迎えに来るまでのほんのわずかな時間、それでも二人でいられることが千尋はうれしかった。
しばらく後、忍人がようやく口を開いた。
「……覚えているか? 出雲の村で、君は星に願いをかけていた」
「え? ああ、あのお祭りの夜ですね」
「確か……星が降る間に、願い事を三度唱えると言っていた」
千尋の脳裏に、あの夜の光景がよみがえる。
忍人との心の距離が、少し縮まったように思えた忘れがたい夜。
そういえばあのときの願いは……。
「……何を願ったんだ?」
「……え?」
「何か……願ったのだろう?」
「そ、それは、そうですが、今日は忍人さんの願い事を聞くはずで……!」
「……俺の願いはそれだ……」
「え?」
忍人は千尋の目をまっすぐに見つめて、かすかに微笑んだ。
「君があのとき願ったことを、俺に叶えさせてほしい」
「!!……」
驚きのあまり、千尋は両手で口を覆って黙り込んだ。
「……俺には叶えられない願いか?」
「ち、違います」
「もう叶ってしまった?」
「そんなことは……!」
どんどん赤くなる千尋を不思議そうに見つめながら、忍人は彼女の答えを待つ。
一度ぎゅっと目を閉じた後、千尋は思い切って口を開いた。
「……こんな風に忍人さんと過ごせますように。できればこの先、何度でも……」
「……? それが……願い?」
「もっと、王らしい願いだったらよかったんですけど……」
照れてうつむく千尋に、
「いや」
と答えると、
「ならば俺は、君の願いを全力で叶えることにしよう……」
と微笑む。
「この先、何度でも……?」
「それが君の願いならば」
「ずっと……ですよ?」
「ああ」
「……忍人さん」
「……?」
「お誕生日、おめでとうございます」
「ありがとう」
二人で見上げる夜空を、一筋の流星が横切っていった。
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