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初恋 ( 3 / 7 )



呼び名にどれほどの意味があるのか分からない。

「望美」は一つ年下の彼を、「譲くん」と呼んでいたという。

けれど私にとって、彼は初めて会った男性。

「譲さん」以外に呼びようがなかった。

同じように、「さん」付けで呼んでいた将臣くんやヒノエくんには、懇願されて呼び方を変えた。

でも、不思議と譲さんは、私に呼び名を変えるよう言わなかった。

その理由がわかったのは、ある朝のこと。




その日は春にしては朝から妙に気温が高く、いつもより早く目が覚めた。

たまには早朝の水汲みを手伝おうと、桶を井戸に運んでいくと、井戸端で譲さんが顔を洗っていた。

バシャバシャと顔に水をかけた後、何を思ったのかいきなり桶の水をかぶる。

頭を左右に振って水を切る姿がいつもより男の子らしく見えて、つい悪戯心が湧いた。




「譲くん!」

明るい声で呼びかけると、彼の動きがピタリと止まった。

すぐに、手探りでそばにある手ぬぐいを掴むと、井戸端の眼鏡も放り出したまま、こちらに走り寄って来る。

その顔は明るく輝いていた。

「先輩っ…!!?」

肩をつかまれ、視線を合わせる。

「記憶が……」

多分、そのときの私は驚きと、そして哀しみを顔に表していたのだと思う。

すぐに譲さんの表情が強ばり、

「……望美…さん…?」

と、問い掛けて来た。




涙をこらえながらひとつ大きくうなずくと、私は背を向けて走り出した。

「望美さ…!」

背中から彼の声が聞こえたけれど、ショックが大きくて立ち止まることなどできなかった。

「譲くん」は「望美」にだけ許された呼び名だったのだ。

私が口に出してはいけない。

その上彼は、私を「望美さん」と呼ぶことで、彼の「望美」ではないと、「先輩」ではないと、厳格に区別していた。

彼が待っているのは、会いたいと思っているのは「望美」。

私がどんなに彼のことを想っても、心は届かないのだと……思い知らされた。


* * *


あの日、俺にすがって泣いて以来、彼女の好意は痛いほど伝わってきた。

いつも俺を目で捜し、見つけると駆け寄ってくる。

はにかんで微笑み、頬を染める。

花のように美しく、可憐な姿。

うれしくないわけがなかった。

けれど、彼女は「先輩」ではない。




「インプリンティング……かな」

兄さんがポツリと口にした。

確かに、すべてを失って目覚めた瞬間の彼女は、生まれたてのヒヨコのようなものだったろう。

そして、たまたま俺がその視線の先にいた。

「刷り込み」が行われたのだ。

ヒヨコが生まれて最初に見た動く物を親だと思い込むように、先輩は俺を唯一の庇護者だと錯覚した。

それは、俺にとって辛すぎる錯覚だった。




先輩が記憶を失う前、下鴨神社で兄さんが合流していた。

俺たちにとっては3カ月ぶりの、兄さんにとっては実に3年以上ぶりの再会。

それまでの3カ月、俺は先輩のそばで、俺なりに一生懸命先輩を守って来たつもりだった。

物心ついてからずっと、兄さんの定位置だった場所、「先輩の隣」に、初めて立つことを許されたのだから。

だけど、どれだけの歳月を経ても、先輩と兄さんはあっという間に絆を深め、俺はまた居場所を失った。

やっぱり2人の間には入れないと、打ちのめされていた。

そんな矢先、あの出来事が起きたのだ。




「あなたは兄さんが好きだったんです」

俺を見つめる瞳に告白したくなる。

「間違えちゃいけない。それは錯覚です」

自分への戒めともなる言葉。

「譲さん」とあなたが呼ぶたび、「望美さん」とあなたを呼ぶたび、俺は自分に言い聞かせる。

この人は先輩じゃない。

先輩は俺を好きになったりしない。

今のこの人に心を動かされてはいけない。




 

 
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