はじまりの物語 ( 2 / 5 )
軽やかなノックの音が響き、重い扉が静かに開いた。
「失礼します」
「……望みは」
「え、いえ、あの、今日はクラヴィス様とお話をさせていただこうと思って」
扉を後ろ手に閉めながら、アンジェリークは闇の中の人物に笑顔を向けた。
「……断る」
「え?」
「……お前と話すことなどない」
にべもない拒否。
「あ、あのディア様が、守護聖様を理解するためにはお話もしたほうがいいと…」
「……命令だと…?」
声が厳しくなり、氷のような眼差しで睨まれる。
「そ、そんな…! 私…!」
「……よい……。……お前が出ていかぬのなら、私が……」
クラヴィスが立ち上がったのを見て、アンジェリークはあわてて戸口に向かった。
「いえ! いえ! もう失礼します! 本当にすみませんでした!!」
勢いよく扉を閉める。
失礼な振る舞いかもしれないが、そうでもしないと執務室の中で泣き出してしまいそうだった。
ポロポロと涙をこぼしながら、扉の前に座り込む。
顔を両手で覆って、嗚咽を必死で堪えた。
「アンジェリーク……?」
穏やかな声が頭上から降ってくる。
「どうしたのです? ……! ……泣いているのですか?」
あわてて膝を折ったのは水の守護聖、リュミエール。
顔を上げることができず、アンジェリークは途切れ途切れに答えた。
「リュ、リュミエール様……私、私、クラヴィス様に失礼をしてしまって……! すみません……!」
「落ち着いて。大丈夫ですよ」
泣きじゃくる背中を優しくさする。
「アンジェリーク、……よろしければ、私の執務室にいらっしゃいませんか」
「え? でも、クラヴィス様にご用だったのでは……」
ようやく顔を上げた少女に、リュミエールは優しく微笑みかけた。
「わたくしたちに今、一番重要なのは、あなたとロザリアの試験をサポートすることですよ。さあ、ご遠慮なくどうぞ」
* * *
柔らかな湯気が、澄んだ香りとともに立ち上った。
リュミエールが自ら育てたというハーブのお茶は、極上の味わい。
温かなカップを両手で包み、アンジェリークはほうっと息を吐いた。
「少しは落ち着きましたか?」
穏やかに問いかけられて、少女は頬を染める。
「すみません、あんなみっともないところをお見せしてしまって…」
リュミエールは無言で微笑むと、カップにお茶を注ぎ足した。
「私……クラヴィス様にとても不躾なお願いをしてしまいました」
カップを見つめたまま、アンジェリークが言う。
「……。わたくしたちを順番に訪ねて、今日の午前には一通り終わったのですよね。どうして、またクラヴィス様をお訪ねしようと思ったのですか?」
「え……あの……、最初にお会いしたときにほとんどお話できなかったので」
「怖くはなかった?」
少女は不思議そうな顔でリュミエールを見た。
「怖い……? いえ、ただ、とっても緊張します。不用意な言葉や動きで、あの方の世界を乱してしまわないかと」
「……あなたは……」
リュミエールが微かに目を見張る。
「え?」
「いいえ……。そうですね、あの方は人と付き合うことに慣れておいでではないのです。わたくしも、初めてお会いしたときにはとても驚きましたよ」
遠い日の思い出が脳裏をかすめた。
アンジェリークはにっこり笑った。
「でも、リュミエール様はあんなに仲がよろしくていらっしゃいます」
「どうでしょう…。そばにいることをお許しになられているというだけで、決してわたくしを必要とされているのではないと思いますよ」
少し自嘲気味に言うと、アンジェリークの顔色が変わった。
「そんな! そんなことないです! クラヴィス様はリュミエール様をとても大切に思われていると思います! 絶対そうです!」
立ち上がっての主張。
リュミエールは思わず微笑んだ。
「…ありがとうございます。アンジェリーク。あなたは本当にやさしい方ですね」
少女は驚いた顔をすると、急に目を伏せ、椅子に力なく座り込んだ。
うつむいたまま、首を左右に振る。
「いいえ……。いいえ。私…私は、クラヴィス様が、ほかのだれも必要としないような、そんな寂しい方だと思いたくないのかもしれません」
水の守護聖は、その悄然とした姿をしばらく見つめた。
「……そう……。一人で生きていける人間など、いないでしょう。けれど、ともに生きるべき相手をまだ見つけられていない人なら……いるかもしれませんね」
アンジェリークが顔を上げる。
「クラヴィス様も…?」
「さあ……。それはともかく、あの方には、あの部屋の外にも世界があることを知っていただいたほうがいいかもしれません」
「?」
リュミエールは極上の笑みを浮かべた。
「アンジェリーク、わたくしに提案があるのですが……」
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