当たり前の奇蹟 ( 1 / 2 )

 



「……」

声にならないため息を聞きつけて、あかねは顔を上げた。

横では鷹通が、空に浮かぶ入道雲を眺めている。

京都の中心街に近いビルの一角。

高いガラス張りの天井をもつカフェで、二人はコーヒーを飲んでいた。




「暑い……ですよね、今日も」

あかねが同じように天井を見上げながら言った。

「そうですね。今日はあまり歩き回らずに、冷房のきいた場所で過ごしたほうがよさそうです」

鷹通はあかねに向き直ると、穏やかに微笑んだ。

週末恒例のデートでは、京都やその近郊を散策することが多い。

だが、夏が盛りを迎えるにつれ、二人の行動範囲は狭まっていた。

「でも鷹通さん、冷房苦手じゃ……」

「さすがにこれだけ暑いと、なしでは過ごせません。前に京で神子殿に『冷房』というものの説明をしていただいたときには、どんなものか想像がつかなかったのですが……」




大豊神社の木漏れ日。

ぎこちない会話。

悲愴な決意と届かない想い。

泣き崩れたあかねの腕を、力強くつかみ、引き寄せた鷹通……。

それらを一気に思い出して、あかねはポッと頬を染めた。

「あの……その節は……大変失礼いたしました……」

鷹通も眼鏡に手をやりながら、俯き加減に言う。

お互いの心を初めて確認しあったあの日。

お互いの唇に初めて触れたあの瞬間。




「鷹通さん」「神子殿」

同時に名を呼んでいた。

「……あ、すみません、……あかねさん」

「ううん。何ですか? 鷹通さん」

「その……もし、よろしければ……」

「はい、私も行きたいです!」

「暑いとは思いますが」

「大丈夫です!」

あかねが鷹通の手をキュッと握ると、鷹通も柔らかく握り返し、微笑んだ。



* * *



蝉の声が高い梢から降り注いでくる。

少し手前にある熊野若王子神社の濃い緑と異なり、大豊神社の参道を縁取る木々の葉の色は淡く、瑞々しい。

なだらかな坂を登り切ると、椿や紫陽花、山茶花が植えられた境内に到着した。




「やっぱり四条の辺りより涼しいですね」

帽子に手を載せ、上を見ながらくるりと回る。

あかねの生き生きとした動作は、あのときと少しも変わっていない。

それとは対照的に、「京」とまったく異なった趣を見せる神社の境内を鷹通は見渡した。

面影の追いようもない、時空を隔てた場所。




「鷹通さん、狛ネズミちゃんにお参りしますか?」

「そうですね。本堂にお参りしてから、ごあいさつしましょう」




二礼二拍手一礼で、礼儀正しく参拝を済ませる。

狛ネズミのいる大国社へ向かう途中で、あかねは不意に傍らの木を指差した。

「この木は古いからもうあまりたくさん花はつけないけど、京都では有名な梅なんですよ」

そう言われて、鷹通は古木に目をやる。

鳥居の横にひっそりと立つ背の高い枝垂れ梅。

幹のあちこちに形作られたこぶと、普通よりか細い枝、木肌の深い色合いが、木が過ごしてきた長い年月を感じさせた。




「……どのくらい古いものなのですか?」

「ええと、350年くらい……だったかな」

「では、私のほうがずっと古いですね」

「!」

驚いて見上げたあかねの瞳に、鷹通は微笑みかける。

「確か……この世界と京の間には、1000年以上の時が流れていると、あなたはおっしゃったでしょう?」

「……はい……」

「樹木でさえ、その半分にも満たない年月を生きるのに、あれだけ形を変える……」

鷹通は、あかねの手をそっと握った。

「ですから、私がこうしてあなたに触れられることは、本当の奇蹟……なのでしょうね」

「鷹通さん……」




長いまつげを伏せ、鷹通は苦笑を浮かべた。

「最近、あなたがそばにいてくださることが、当たり前になってきて……。私はときどき、この稀なる縁(えにし)の価値を忘れそうになってしまうのです。先ほども、コーヒーを飲みながらあなたと話している、それを当たり前に感じる自分に呆れておりました」

「だから、ため息?」

「……! すみません。気づいておられたのですね」