優しい人




「……二ノ姫」

「はい」

「……なぜ今日もいる?」

「勉強です」

「……………」




葛城忍人は、いろいろと言いたいことをグッとこらえて、草原へと踏み出した。

新兵たちの怯えた視線が注がれる。

それらをいっさい忖度せずに、彼は今日の訓練を開始した。

容赦ない叱責。

鋭い眼光。

姿勢やタイミング、剣の角度など、指導は細かく、徹底していた。

鞭のようにしなやかな体躯が、新兵の中を行き来し、自ら剣を振るい、隊列を整え、新たな問題を見つけては駆ける。




(昨日は気づかなかったけど……)

千尋は一人つぶやいた。

(どう見ても忍人さんの運動量が一番多いよ。声も出してるし)

鞘を払い、見事な太刀捌きを見せる忍人は、まるで舞っているかのように美しい。

(毎日毎日鍛錬して、あんなにすごい剣士になったんだな……)

数百の兵の中を隈無く歩き、声をかける濃紺の装束に、千尋の目は釘付けだった。




やがて休憩に入り、バタバタと倒れるように兵たちがその場に座り込む。

水を十分に摂るよう注意しながら、忍人は千尋のいる丘に戻って来た。

「……まだいたのか」

「はい。すごく勉強になりました」

さわさわと風が吹き抜ける木陰。

兵たちと同じ炎天下で見学したいと言った千尋を、無理矢理この場所に連れて来たのは忍人だった。

「…あの、もし嫌じゃなければ、飲みませんか?」

千尋がおずおずと竹筒を差し出す。

「…これは?」

「果物の果汁を混ぜて作ったんです。川で冷やしておいたから、まだ冷たいと思います」

「……………」




一瞬ためらった後、「もらおう」と、忍人は手を差し伸べた。

のどを落ちる爽やかな感触。

一気に飲み終え、忍人は空になった竹筒をじっと見つめた。

「あ…あの、あんまりお口に合わなかったですか」

「いや…」

千尋に竹筒を返す。

「……こんなにうまいものは初めて飲んだ」

「本当に?」

ふっと微笑みがこぼれる。

「ああ。礼を言う」

「どういたしまして!」

満面の笑顔で答えられて、忍人の表情に少し戸惑いが浮かんだ。




「君は……豊葦原での記憶があまりないと聞いたが」

千尋の傍らに腰を下ろしながら尋ねる。

「ええ…。燃えている橿原宮と、姉様が私に弓を託したこと……その辺りは思い出したんですけど、あとは断片的にしか覚えていなくて」

千尋は申し訳ないという表情で目を伏せた。

「だから、姫と呼ばれたり、大将軍を務めさせられても、こんな場所に自分がいていいのか不安で…」

「将が迷いを見せては駄目だ」

鋭い語調で忍人が言う。

千尋は驚いて顔を上げた。

「戦場で、兵たちは何を頼りに戦うと思う? 必ず勝利を導くと信じるに足る将の命だ。全軍の要となる君は、間違っても己の迷いを見せてはいけない」

「……はい」

硬い表情で答えるのを見て、忍人はひとつため息をついた。




「だが、記憶があいまいなことにはいい面もある」

「え?」

「君はよくも悪くもこの豊葦原の常識を知らない。その上での言動が、かつて中つ国に従うことのなかった、日向の民や土蜘蛛たちを引き付け、兵や民の心をつかんでいる。それは事実だ」

「………………」

千尋が沈黙しているので、忍人は彼女のほうを見た。

「どうかしたか」

「…あの………私は今、ひょっとしてほめられたんでしょうか…?」

眉間に皺を寄せて、千尋が尋ねる。

「………………」

忍人の沈黙に、千尋の目が不安そうに見開かれた。

「……そう思ってもらってかまわない」

「は、はい…!」

ほうっと千尋が息を吐く。




「君は将だ。いちいち俺の評価を気にする必要はない」

困惑したように、忍人は言った。

「忍人さんは優秀な将軍だし、その忍人さんにほめられれば、やっぱりうれしいです」

はにかんだ微笑みを浮かべて、千尋が答える。

「………………」

今度の沈黙には重苦しさを感じなかったので、千尋はそのまま忍人を見つめていた。

突然、風がふわっと丘に吹き上がる。

「キャ…!」

砂埃をよけるか、ひるがえりそうなスカートを押さえるか、一瞬迷った末、千尋はスカートを選んだ。

が、なぜか砂埃は顔に当たらない。

思わず閉じた目を開くと、目の前に忍人の胸があった。

「…!」




「大丈夫か?」

「は、はい」

盾になってくれたのだと気づいて、千尋は頬を染めた。

「では、俺は訓練に戻る。君もそろそろ船に戻ったらどうだ」

立ち上がって、草を払いながら忍人が言う。

ブルンブルンと千尋は首を左右に振った。

「だめです。ようやくわかりかけてきたところなんですから」

「何が?」

「…………」

無言のまま、千尋は忍人の目をまっすぐ見つめた。

忍人も、その目を見つめ返す。

「………普段は隠されているけれど、本当は常にそこにある真実が…」

「……そんなものが、訓練を見るだけでわかるのか」

「わかります」




「……まあ、君が見ていれば兵たちの士気も上がるだろうが」

フイッと視線を外すと、忍人が言った。

「私が言ってるのは…」

「木陰から出るな。肝心なときに将が倒れては元も子もない」

そう命じると、早足で丘を下って行く。

「休憩は終わりだ! 全員位置に着け!」

鋭い号令が響き、兵たちはいっせいに立ち上がった。

「…兵のことじゃなくて……」

忍人に伝えられなかった言葉を、一人つぶやく。




再び、兵たちの間を忍人が駆け抜ける。

敏捷な獣のように、溌剌とした若駒のように。

彼の目的はただ一つ。

犠牲者を出すことなく、勝利をつかむこと。

兵たちの命を守るため、可能な限り過酷な訓練を課し、非難されようと、憎まれようと、それを貫き通す。




「……やっぱり、優しい人……だよね…」

昨日、真っ向から否定された言葉を、千尋はつぶやく。

厳しさは相手を大切に想う気持ちの表れ。

自分を守るよりもずっと熱心に、他人を守ろうとする忍人。

でも……と、千尋は軽くため息をつく。

「…自分のことも、もっと大切にしないとダメですよ」

歴戦の勇士といえど、疲れもするし、病気にもなる。

そんなときも、忍人は自分に休息を許さないのではないか…と心配だった。

「寝台に縛り付けてでも、私が看病するんだから」




また、草原を風が渡った。

暑さの中で動き続ける兵たちを癒すように。

ひときわ強い風が、忍人の髪と服の裾をなびかせる。

その姿を見つめながら、千尋は自分の心の中にわき上がる感情の意味に、まだ気づいていなかった。



 

 

 

 
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