Voi che sapete ( 2 / 2 )
「ど、ど、どうするんですか~!! いったいいくらの花束頼んじゃったんですか?!!?」
店から少し離れたベンチで、香穂子は涙目で柚木を問い質した。
「さあ。適当に選んでもらったから、出来上がらないとわからないな」
「私3000円しか持ってないんですよ! 絶対足りない~!!」
「ATMに連れて行ってやるから」
「口座にだってお金ないです~!!!」
ふう、っと柚木はため息をついた。
「みっともない。あまり大声を出さないでくれないか」
「!!」
香穂子は目の前に怒りで震えるこぶしを出し、ぐーっと目をつぶってこらえると、あきらめたようにベンチに座り込んだ。
「それでいい」
「……もう、サイテーです。本当に柚木先輩って疫病神」
試合に負けたボクサーのように、前屈みにガックリとうなだれる。
頭上でふっと笑う気配がして、柚木が静かに話し出した。
「バラというのは、病気に弱く、虫に弱く、温度変化や地質の変化にも敏感に反応する植物なんだ。肥料食いで、かといって無計画にやりすぎると今度は根がやられてしまう。手入れを怠れば花の色や形にすぐに出るし、木が古くなると花付きが悪くなる」
「……はあ……」
「本当に神経を使うやっかいな花だけれど、あの美しさと佇まいに魅せられた人間は絶えることなく、色に、形に、香りに工夫を凝らし、より高みを目指して毎年新しい品種を生み出している。気が遠くなるほどの手間をかけてね。お前がみとれていたのも、そういうバラの一つだ」
「…………」
なぜか、バイオリンの美しい音色が香穂子の頭の中をよぎった。
澄み切った響きは、たゆまぬ努力を続けた演奏者だけが奏でられる特別な宝石。
一音に注がれる情熱と、一輪に注がれる情熱は、きっとよく似たものなのだろう。
楽器に触れる前の自分は、そんなふうに考えたこともなかったが。
突然、香穂子はすっくと立ち上がった。
「……日野?」
「とにかく、ATMで有り金全部下ろしてきます」
「おい?」
柚木が腕を取って止めると、香穂子はキッと彼の顔を見た。
「そんなに大変な思いをして育てた花に、それに見合うお金を払うのは当然ですから! 縁あって私のところに来るんだから、ちゃんと迎えてあげたいし」
柚木は驚いたように目を見開いて、香穂子を見つめた。
そして、いきなり笑い始める。
「ゆ、柚木先輩……?」
「お前のところには来ないよ」
「……はあ?」
「あれは俺が自宅に持ち帰る花束だから」
「ええっ?!?!?!?」
おかしくてたまらないというように、身体を二つに折って柚木は笑い続けた。
「ゆ、柚木先輩! 私をだまして…!!?」
顔を真っ赤にして香穂子が抗議すると
「俺は一度も、お前の花束だなんて言ってないだろう? 本当に、飽きない奴だな、日野」
それだけ言って、また笑い続ける。
香穂子はその愉快そうな顔を、頭に血を上らせながら睨みつけていた。
* * *
「お待たせいたしました」
「ありがとうございます。支払いはカードでお願いします」
背後で交わされる会話を聞きながら
「高校生の分際でクレジットカードなんか持ってるのか。このおぼっちゃんめ」
と、香穂子はブツブツつぶやいていた。
だいたいいくら私立校でも、月森といい、冬海といい、加地といい、星奏学院には金持ちが多すぎる。
おかげで庶民派の自分は、こうして金持ちのおもちゃにされるのだ。
「日野、駅まで行く間だけでも、この花束を持ってみるか?」
ふわっと差し出された繊細な花の競演は、しかし、意地を張って断るにはあまりに魅力的すぎた。
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして。傷めないように丁寧に扱えよ」
「わかってます!」
深いセピア、まぶしい緑、月の光のような青。
間に添えられた純白のバラが、それぞれの色を引き立てる。
立ち上るかぐわしい香りに頬を上気させながら、香穂子は尋ねた。
「このアレンジ、柚木先輩が指定したんですか?」
「ああ。これでも華道の家の人間だから。色同士がケンカしないでバランスを保っているだろう?」
「はい! 本当にすごく素敵!」
香穂子が心からうれしそうに言うと、柚木は一瞬眉をひそめる。
そして目をそらし、黙り込んでしまった。
「?」
(私、何か気に障ること、言ったかな?)
ショッピング街は、楽しそうに買い物をする客たちでにぎわっていた。
その喧噪をBGM代わりに、しばらく二人で歩く。
やがて、地下鉄の駅の入り口が見えてきた。
「あ~あ。ゴールに到着」
「そのようだね」
香穂子は柚木の腕の中に、花束を慎重に戻した。
「すみません、ここまでつきあってもらって。柚木先輩は車ですものね」
「ああ、すぐそこに迎えに来ることになってる。お前につきあって回り道するほど、俺は暇じゃないからね」
「はいはい、それならよかったです」
まったくこの人は……と思いながら、香穂子は柚木の正面に立ち、姿勢を正した。
「? 日野……?」
「……からかわれたのはすごく腹が立ったけど、やっぱりこのバラを間近で見られたのはすごくうれしかったです。ありがとうございました、柚木先輩」
きちんと一礼すると、香穂子はにっこりと微笑んだ。
「…………」
「じゃあ、失礼します」
「日野」
背中を向けた途端、声がかかる。
振り向くと、柚木が小さなショッピングバッグを差し出していた。
「……? 柚木先輩?」
「今日、俺を楽しませてくれたご褒美だよ」
「え?」
バッグの中に入っていたのは、花束と同じバラで作ったかわいらしいブーケ。
「!!」
「小さくて不満かもしれないが」
「そんなことない! すごくきれいです! でも……」
「そのぐらいの大きさならお前の予算でも買えるだろう? いいものがあると思ったら、店構えに気圧されずに、勇気を出して入ってみることだな。『本物』に触れるのは、音に対する感性を磨くのにも役立つんだから」
「……は、はい」
戸惑いながら頷く香穂子を見て、柚木はクスリと笑った。
「わかったら素直に持ってお帰り」
「でも、あの……?」
彼女の声を無視して、柚木は背を向けて歩き出す。
「……ゆ、柚木先輩、ありがとうございました……!」
後ろから、香穂子の声が追いかけてきた。
素朴な姿のバラ。
こぼれるように豊かな花弁を誇る、色鮮やかなバラの中では目立たないけれど……
世界のほかのどこにもない色合いと。
人を惹き付ける不思議な魅力と。
腕の中の花束を見ながら、柚木は先ほど自分が抱いた気持ちの理由を探していた。
うれしそうに微笑む香穂子に、
「その花束はお前にやるよ」
……そう言いたくてたまらなくなった理由を。
たとえばセレクションでいい成績を挙げた後。
たとえば誕生日の当日。
何か、香穂子が拒めないようなタイミングで、今度は大きな花束を渡そう。
もちろん、あいつが真っ赤になって怒るような、練りに練った『意地悪』を仕込んで。
驚いて、悔しがって、いじけて、それでも最後には俺のやった花束を、うれしそうに抱えて帰るだろう。
そうすればこの正体のわからない胸のざわめきは、少しは収まってくれるだろうから。
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