吉水神社(奈良県吉野郡吉野町)
吉野の山中にある吉水神社は、義経と静御前が涙の別れを告げた場所として よく知られています。
壇ノ浦での勝利の後、頼朝と義経の関係の悪化は止まらず、 ついに「義経追討」の院宣が出されるに至って、義経主従は長い逃亡の旅へと追いやられました。
逃げのびた先の吉野で、ひとまず身を隠したのがこの社だと言われています。
上の部屋は「義経潜居の間」と呼ばれ、 右側に少し見えている狭い畳敷きの一角が「弁慶思案の間」と呼ばれています。
床の間には静御前のものと伝えられる着物が展示されていました。
左上が「弁慶思案の間」のアップ。
神社の境内には、弁慶の力釘(右上)というのも残されています。
頼朝の追っ手が吉水神社にやってきたとき、弁慶が親指で釘を二本、石に打ち込んで、追っ手たちを恐れさせ、追い払ったのだとか。
弁慶に関しては、あちこちにこういう逸話が残っていますね。
この神社は、南北朝時代に後醍醐天皇が南朝の行宮を置いた場所としても知られています。
左上はその玉座の間。
この天皇はとても野心的な方で、武士の世を帝の世に戻そうと兵を挙げ、皇子の大搭宮護良親王を将に任じて戦いました。
吉野もその主戦場のひとつでした。
鎌倉幕府を倒し、建武の新政を敷いたものの、台頭してきた足利尊氏に追い落とされ、失意のうちにこの吉野で生涯を終えたそうです。
右上は書院を外から見たところ。
中には、この場所を舞台とした歴史を垣間見ることができる、数々の品が展示されています。
左上は重要文化財となっている義経の鎧。
驚くほど小さくて、小柄だったという生前の姿をしのばせます。
まあ、この時代の日本人はみんな小さかったんですけどね~。
右上は弁慶の七つ道具の一部だそうです。
背中にたくさん背負っていたやつですね。
左上の写真は、手前が静御前の鎧、奥が義経の鐙だそうです。左側が弁慶の篭手かな?
右上の写真は佐藤忠信の兜。
佐藤忠信は奥州から義経に付き従ってきた家臣で、屋島で義経をかばって射殺された佐藤継信の弟にあたります。
この方の最期にもいろいろな説や伝説がありますね……。
吉水神社の正面外観(左上)。
義経潜居の間や南朝の玉座がある書院(左)は、日本最古の書院建築として、ユネスコの世界遺産に登録されているそうです。
右上は、庭園にある北闕門。
後醍醐天皇がここから京都に向かって祈ったのだそうで、邪気が祓えるパワースポットとして九字の切り方が解説されていました。
吉水神社は、豊臣秀吉が吉野で花見をした際、本陣を置いた場所でもあります。
徳川家康や前田利家、伊達政宗ら、名だたる大名を引き連れて、数日間にわたり滞在したのだとか。
この際、秀吉が「絶景じゃ」と喜んだのが、神社の門をくぐったところから見える「一目千本」の景色(下)。
本当に盛りの時期には、もっと見事だったと思います。
そして最後になりましたが、『遥か3』のゲームの中では、熊野参詣の後に、紅葉の吉野に立ち寄っています。
この場所の因縁を知らない九郎さんに、譲くんがちょっと意地悪を言う場面が印象的でした。
「『吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の…』っていう、 女を置き去りにして一人で逃げた、ひどい男の歌だったよな」
「譲はすごいな!」と、天然ボケかまされてあえなく敗退しましたが(^_^;)。
『遙か3』には、ときどきこういう「ヤキモチエピソード」が登場しましたね。
『十六夜記』、『運命の迷宮』と、譲くんはどんどん人間ができてきますが、 このころの青さも大好きです。