「好き」という幸福
「譲くん」
そこにいないのに、ふと呼んでしまうことがある。
「譲くん、大好きだよ」
そうすると、あの柔らかい笑顔が目の前によみがえる。
(「先輩…」)
日だまりのように優しくて温かい微笑み。
思い出すだけで私の心はほぐれて、一緒に微笑んでしまう。
「大好きだよ」
* * *
土曜日。
部活の練習を終えた譲は、携帯で時間を確認しながら足早に歩いていた。
「少し待たせてしまうな」
望美との待ち合わせ時刻はすでに過ぎていた。
次の大会に関するミーティングが長引いたせいだ。
メールを打とうとして、この間望美に言われたことを思い出す。
「譲くん、5分や10分遅れても大丈夫だよ。待ってるのも楽しいんだから」
(……あんなこと言ってたけど、本当かな。俺はともかく……)
二人のつきあいにおいては、圧倒的に譲が望美を待つことのほうが多い。
朝練がない時期の登校も、休日の外出も、玄関の前で望美のにぎやかな足音が近づいてくるのを待ち、その後紡がれるいろいろな言い訳に耳を傾ける。
「昨日、深夜ドラマ見ちゃって」
「目覚まし時計の電池が切れてて」
「これでも受験生だから勉強してて」
そう言いながらくるくると変わる表情を見るのは楽しい。
中でも心が躍るのは、
「髪型が納得いかなくて」
「この服、変じゃない? さんざん迷ったんだけど」
「このリップ、やっぱり派手かなあ」
自分のための装いに悩んだと望美が打ち明けてくれる瞬間。
望美はいつでも信じられないくらい美しくてかわいいのに、頬を紅潮させて「ダメかな?」「似合わない?」と尋ねてくる。
「そんなことありません。とっても似合いますよ」
「俺はその色、大好きです」
「きれいです。すごく」
ありきたりな返事に、彼女はとてもうれしそうに微笑む。
(まったく、俺ばっかり一方的に好きで、先輩には申し訳ないな)
溜息がもれる。
幼いころから大好きで、憧れていて、その想いは自分でももてあますほどだ。
異世界や迷宮での出来事の後、こうしてつきあうようになっても、自分の重すぎる気持ちが望美を押しつぶさないよう、必死でセーブしている。
恋などという言葉では表せないほどの強い強い想い。
だから常にコンプレックスがある。
望美は自分のことを好きだと言ってくれるけれど、その好きは自分の好きとは比べ物にならないくらい、ほのかでかわいらしいものだろう。
果てしない渇望と、悲愴なまでの決意の末、ようやく闇に光が差してきたように感じている譲とは、心象風景があまりに違う。
望美が、自分といて心地よいと感じてくれるように、楽しいと思ってくれるように……。
いつでも春の衣をまとわなければと、譲は自分に言い聞かせていた。
* * *
「譲くん…」
不意に名前を呼ばれて驚く。
公園の奥まった場所にあるベンチ。
そこに望美が腰掛けていた。
木立に囲まれて存在がわかりにくいのか、いつも空いているそのベンチは二人の定番の待ち合わせ場所だ。
返事をしようとした譲は、望美が目を閉じていることに気づく。
「譲くん…」
もう一度呼ぶと、望美は本当に幸せそうに微笑んだ。
そして、言葉を継ぐ。
「大好きだよ」
譲の頬が一気にカッと熱くなる。
言った本人はふふふと笑って両頬に手をあて、照れたように下を向いた。
そして目を開き、視界の隅のスニーカーに気づく。
「!!」
一瞬固まった後、おそるおそるというようにゆっくり顔を上げた。
「…………」
「…………」
お互い、水をかければ蒸発しそうなほど真っ赤な顔。
ガタン!と音をたてて望美が立ち上がった。
とっさに譲が口を開く。
「あ、あの! お、遅くなってすみませんでした!」
「う、ううん! 全然!」
「……あの…」
「……えっと…」
「先輩……」
「ご、ごめんね、バカやってて……」
望美が赤い顔のまま微笑む。
「でも……こうやって譲くんを待ってるの、楽しいんだよ」
「……先輩…」
春の光そのものの笑顔。
ドキンと一度高鳴った鼓動は、そのまま温かな想いへと変わっていく。
(……そうか…)
心の奥から湧き出すような幸福な気持ち……。
「……譲くん?」
黙ったままの譲を見て、望美は不思議そうに首を傾げる。
譲はベンチに歩み寄ると、望美の手を取った。
「……すみません、先輩。……俺、ちょっとうぬぼれていたみたいです…」
「え?」
「『好き』っていう想いに、違いなんかないんですね…」
「譲くん…?」
「?」を浮かべたままの望美を、静かに胸に引き寄せる。
激しい渇望や焦燥の奥底に、一番最初からあった純粋な想い。
「好き」という優しく瑞々しい感情。
「……俺も、……あなたが大好きです…」
「!」
腕の中の望美の頬が、鮮やかなバラ色に染まった。
木立に守られた穏やかな空間で、二人はお互いの中の最上の心模様にしばらく身を委ねる。
人を好きでいられる幸福。
人に好きでいてもらえる幸福。
「ありがとう」と、どちらからともなく、つぶやく声が聞こえた。
* * *
「先輩」
そこにいないのに、ふと呼んでしまうことがある。
「先輩、大好きです」
一瞬、目を丸くした彼女が、幻の中でこぼれるように微笑む。
(「譲くん…」)
水面に踊る光のような、まぶしい澄んだ笑顔。
いとおしさが心に満ちあふれ、気づけば一緒に微笑んでいる。
「あなたが大好きです……」
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