早春の陽光 ( 2 / 2 )
「……忍人さん、ちょっといいですか?」
控えめなノックに続き、千尋の囁く声が聞こえた。
窓の外には夜の帳が下り、星が一面に広がっている。
千尋がこんな時間に来ることは珍しく、忍人は自室の扉をあわてて開いた。
「大丈夫。一人じゃありませんから」
千尋の後ろで、風早が片目をつぶって言った。
「……ああ……当然だ」
ほっと息をついて忍人が応える。
「あの、風早」
「OKです。じゃあ、また後で。忍人、千尋を預けたよ」
「?……ああ」
兄弟子は部屋をさっさと出て行ってしまった。
忍人は千尋に椅子を勧めると、自分も向かい合った椅子に腰掛けた。
しばらく逡巡した後、千尋が口を開く。
「……あの、今日は、私がいた元の世界では、『バレンタインデー』なんです」
「ばれん……? それは、何かの祝典か?」
「そ……そうですね。それっぽいかな」
頬を染め、うつむきがちに答える。
(……かわいい)
素直にそう思いながら、忍人は言葉を続けた。
「それで、何を祝うんだ? 俺の力が必要なのか?」
「あ、あの、女性から男性に贈り物をする日なんです。だから、忍人さんにこれを受け取ってほしくて……!」
少し潤んだ千尋の青い瞳が、部屋の灯火の光を映して煌めく。
青空に星が瞬くような、神秘的な光景。
忍人はそれにしばしみとれた後、ようやく手を伸ばした。
小振りな土器の壷が美しい布で覆われ、飾り紐で封をされている。
「……これは」
「カリガネに教わって作ったんです。開けてみてもらえますか?」
千尋の言葉に従って、飾り紐をほどき、蓋代わりの布を取り去ると、中には黄金色の菓子が詰められていた。
食欲をそそる芳香が、立ち上ってくる。
「あ、甘くないから忍人さんでも大丈夫ですよ!」
黙って眺めている忍人に、千尋があわてて言い添えた。
「……食べていいのか?」
「はい! もちろん!」
(あの時作っていたのはこれか……)
密かに納得しながら忍人は菓子を口に運んだ。
木の実の香ばしさと、サックリとした生地の歯ごたえ。
これまでこんな菓子を食したことはなかった。
不安そうにじっと見つめる千尋に笑いかける。
「……うまいな」
「よかった~!!!」
輝くような笑顔を向けられて、どんなものよりもその笑顔が最高の贈り物だと、忍人は思った。
まったく同じことを、実は千尋も感じていたのだが。
忍人に勧められ、二人で菓子をつまみながらしばし語り合う。
「……それで、この贈り物には何か意味があるのか?」
「そ、そ、それは、その、い、意味は、あ、あります、よ」
「どんな?」
「……☆△*●……」
「口にしてはいけないのか。願掛けのようなものか?」
「あ、はい……が、願掛け……に近い……かな」
「赤くなる必要があるのか?」
コンコンと軽いノックの音が響く。
扉が開き、風早が顔を出した。
「おや、早すぎたかな? そろそろかと思ったんですが」
「だ、大丈夫だよ、風早! ありがとう!」
千尋はあわてて立ち上がると、戸口に急ぐ。
「まあまあ、落ち着いて、千尋。ああ、忍人用の菓子はそういうものにしたんですね」
風早は、壷の中を覗くと興味深そうに言った。
「? お前のものと違うのか?」
「だって俺のは義理用……」
「風早っ!!」
千尋が真っ赤になって風早の口をふさぐ。
「???」
「み、みんなには甘いお菓子を作ったんです!! 忍人さんは甘いのが苦手だって聞いたから」
「……そうか。手間をかけさせたな。もし、来年も作るのなら、俺は皆と同じものでいい」
「…………」
「忍人」
千尋の手をそっとよけると、風早が言った。
「あちらの世界では、女性が自分の思いを伝えるために贈り物をするんです。今回俺たちがもらったのは、まあ、日ごろ世話になっていることへの感謝かな。でも君への菓子は」
「も、もう帰るね! 忍人さん、失礼しました!!」
千尋は真っ赤になって部屋を飛び出していった。
「千尋!」
「風早、姫を一人で行かせては駄目だ」
「ああ、じゃあ、これだけ。その菓子は千尋が一番大切に想う人のために作ったんだ。甘いとか甘くないとかじゃなく」
「…………俺が療養中だからか?」
「忍人、いつまでもそんなこと言ってたら駄目だよ」
「!」
にこっと笑うと、風早は扉を出て行った。
「千尋~! 待ってください~! 一人で帰ると忍人が心配しますよ~」
忍人をダシにして千尋を呼ぶ声が遠ざかっていく。
「……………」
一人残された忍人は、部屋の中に佇んで風早の言葉を反芻していた。
「……一番……大切に想う……人……?……」
(い、意味は、あ、あります、よ)
(……が、願掛け……に近い……かな)
「…………」
壷の中に残った菓子を、ゆっくりと口に運び、もう一度味わう。
ていねいに焼き上げられた、きめ細やかな生地の歯ごたえ。
千尋が一生懸命に作っている姿が目に浮かぶようだった。
今の忍人にとって、誰よりも愛しく、かけがえのない女性。
その彼女から、一番大切に想われている……?
「……千尋……」
名前を口に出す度、温かく、熱く、切なく、狂おしい感情がわき上がってくる。
いったい自分はこの気持ちをどうすればいいのか。
「……俺は……彼女を……」
答えはまだ出ない。
いや、出ているが、それを認めることができない。
菓子を手にしたまま、忍人は部屋の中にいつまでも立ち尽くしていた。
翌日、風早は「ホワイトデー」の存在を、忍人にそっと耳打ちしたという。
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