それから
さわやかな高原の木漏れ日のごとき笑顔を浮かべて王子は立っていた。
その周りをずらりと囲むのは、言わずと知れた柚木親衛隊。
一般女子なら怖くて絶対に近づきたくないシチュエーションだが、王子からお召しがあったのだからしょうがない。
「……あの…」
控えめな声で呼びかけると、何十もの剣呑な目がいっせいに向けられた。
「やあ、日野さん。ごめんね、忙しいのに呼び出しちゃって」
「…い、いえ…」
親衛隊なら泣いて喜ぶ王子のお召しを、半分迷惑そうに受ける香穂子に非難の眼差しが注がれる。「何、あの子」「信じられない」などという囁きも聞こえてくる。
「じゃあ、みんな。申し訳ないけど、僕は日野さんと話があるから」
キラキラと微笑みながら片手を上げ、香穂子を促して屋上への階段を上る。
(あ~~! みんな! この人は王子じゃなくて魔王なのよ~~!)
香穂子がいくら心で叫んでも、その声が届くはずはなかった。
* * *
「ん…」
人気のない屋上の、さらに人目の届かない物陰に行くと、いきなりキスをされた。
息苦しくなって胸を押しても、いっこうにやめる気配がない。
「んん~!!!!」
必死に胸を叩くとようやく顔が離れ、呆れたように見つめられた。
「お前は馬鹿か」
「ば、馬鹿って…」
ぜーぜーと肩で呼吸しながら答える。
「鼻を使え、鼻を。キスの間中息を止めてたら窒息するだろう」
「そ、そんなこと言われても、いきなりだから」
柚木はなぜか楽しそうに溜め息をつくと、その細くて長い人差し指をぴたりと香穂子の唇に当てた。
「? 柚木先輩?」
「口を開けるな。鼻で呼吸してみろ」
「え?」
「練習」
「れ…!?」
ギュウッと指が押し付けられる。問答無用らしい。
香穂子は仕方なく、しばらく鼻で呼吸してみせた。
「ほら。ちゃんとできるだろう?」
確かに。
コクンとうなずく。
「じゃあ本番」
(えっ?!)と声を上げる暇もなく、またたっぷりと長い時間キスをされた。
「あの……キスするために呼んだんですか?」
ようやく解放され、ベンチに並んで腰掛けてから香穂子が言った。
翻弄されっぱなしなので、口調は憮然としたものになる。
「おかしなことを言うな」
「へ?」
くいっと香穂子の顎を引き寄せる。
「俺たちは付き合うんだろう? だったら用事なんかなくてもいいじゃないか」
「あ……」
かーっと、今更ながら香穂子が赤くなるのを見て、柚木は微笑んだ。
「まあ、用事がないわけでもないが」
「どっちなんですかっ!」
思わず突っ込む。
すっと柚木の表情が翳った。
(あ、まただ…)
香穂子が立ち入れない、柚木が一人で抱える苦悩の世界。
何か助けになりたくて、思わず手に触れる。
不思議そうに柚木が顔を上げた。
「何?」
「え…」
いきなり見つめられてドギマギする。
「せ、先輩……つらそうだったから」
「…!」
しばらく驚きを顔に示した後、柚木が苦笑した。
長い溜め息をついて、話し出す。
「お前には悪いが……少なくとも俺が卒業するまで、俺と付き合っていることは周りに伏せてほしい」
「…はい」
あっさりと香穂子が返事をしたのに、柚木が驚く。
「いいのか?」
「…っていうか、そのほうが助かります。私、親衛隊に殺されちゃうし」
一瞬、失望を浮かべた後、柚木が睫毛を伏せた。
「ああ、そうか」
「冗談ですよ」
香穂子がにっこり笑って言う。
「おうちのこととか…いろいろあるんでしょう?」
「…………」
柚木は顔を背けたまま、無言だった。
長い沈黙。
あまりに長いので、香穂子はもう柚木が自分と口をきく気がないのではないかと思い始めた。
「あの……用事がそれだけなら…」
腰を上げかける。
すると、手がすっと伸びて香穂子の手を握った。
「駄目」
「でも」
「駄目だ」
顔は相変わらず背けたまま。
それでも手をほどく様子はない。
香穂子は仕方なくもう一度腰掛けた。
再び長い沈黙。
吹き抜ける風が、柚木の髪を揺らす。
(きれいな髪だな…うらやましい)
風にそよぐ様を見て、香穂子は思った。
くせのないまっすぐな髪には、絹のような光沢がある。
(それに長い指…)
自分の手に重ねられた、優美な手を眺める。
どの指も女性と見紛うほど細く長く、それでいて香穂子の手をしっかりと包むだけ大きかった。
(この指でフルートを奏でるんだから、そりゃ優雅に見えるよなあ…)
演奏中の柚木の姿を思い浮かべた。
(……親衛隊ができるのも無理ないか)
「俺の手が面白いか?」
「キャッ!!」
突然話しかけられて、香穂子は飛び上がる。
「落ち着きのない女だな」
「ゆ、ゆ、柚木先輩が突然……!」
柚木は、ベンチの下に座り込んでしまった香穂子を助け起こした。
もう一度横に座らせ、膝を軽く払う。
柚木に触れられて、香穂子は頬を染めた。
「お前、いちいち反応し過ぎ」
「だって…」
ふっと笑みを浮かべる。
自分を偽っている時の笑顔と違う、少し男っぽい表情。
香穂子は思わず見とれてしまう。
「急に黙って悪かったな。別に気分を害した訳じゃない」
「…はい…」
「なんだ? 信じてないのか」
「…いえ。でも…ああいうとき、どうしていいかわからなくて…」
俯く香穂子を見て、柚木がもう一度きゅっと手を握った。
「…!…」
「何もしなくていい。そばにいれば…いいんだ」
「……あ……はい」
真っ赤になって香穂子がまた俯く。
手をつないだまま、しばらく二人で風に吹かれていた。
バーンと屋上の扉が開く音が聞こえ、にぎやかな足音が近づいてくる。
柚木はさりげなくつないだ手をほどいた。
「柚木~! あれ~? ここにもいないのかな?」
「ここにいるよ、火原」
ベンチから立ち上がってにっこり微笑む。
もうすっかりいつもの「柚木梓馬」に戻っていた。
「あ、よかった! あれ? 日野ちゃんもいっしょ?」
「火原先輩。どうしたんですか?」
同じく立ち上がって香穂子が尋ねる。
「柚木に数学のノート借りようと思ってさ。明日小テストなんだ」
「昨日の授業では、爆睡していたからね」
火原が真っ赤になる。
「ゆ、柚木、日野ちゃんの前でバラすなよ!」
「ごめんごめん」
微笑みながら柚木は思う。
(俺とお前がつきあってるのを、火原には見せたくないんだよ、日野)
火原にベタ惚れされているのにまったく気づかない香穂子と、自分がベタ惚れしていることをいまひとつ自覚していない火原を見ながら、柚木は心の中で溜め息をついた。
(せめて卒業までは…ね)
「つきあっていることを伏せる理由」を香穂子に説明するため、頭の中で優先順位を組み立てたら、最初の理由が「火原をがっかりさせたくない」になったことに柚木は驚いていた。
家のこと、祖母のこと、婚約者候補のこと、もっと強力な理由はあるはずなのだが。
(まったく。俺も案外普通の人間なのかもしれないな)
香穂子には死んでも聞かせられない…と思いつつ、王子は再び「柚木スマイル」を身にまとうのだった。
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