バラの苑への誘い ( 2 / 2 )
「まったく、普通科の連中はお気楽でいいね」
案の定、二人きりになると柚木は不機嫌をあらわにした。
少し苛立った表情を眺めながら、香穂子は尋ねる。
「……先輩は、星奏学院大学には進まないんですか?」
一瞬、目を見開いた後、柚木は無言になった。
しばらくして、ポツリと口を開く。
「……約束……だからね」
「約束?」
「音楽を学ぶのは高校まで。大学は、家の事業の役に立つ経済学部に進むことになっている」
「そんな……!」
「前にも言っただろう? 才能に恵まれていたって、プロになるのはとても難しい世界なんだ。『音楽が好き』という一時の感情だけでそんなリスクの大きい人生に踏み出すわけにはいかない」
「でも……好きなんですよね」
「…………一年後には、どうなってるかわからないさ」
皮肉な笑みは、けれどどこか泣いているような表情にも見えた。
「さて、おしゃべりはここまで。日曜日の昼過ぎに家まで迎えに行くから、恥ずかしくない格好で支度しておくんだよ」
「え?」
突然の柚木の言葉に、香穂子は目を見開く。
「ま、まさかまた婚約者のフリとかですか?!」
「お前の演技力にはこの間十分失望したから、もう二度と頼んだりしないさ」
片眉をくいっと上げて、意地悪な微笑みを浮かべる。
彼がいつものペースに戻ったことに、香穂子は心の隅で安堵した。
「じゃ、じゃ、じゃあ、何ですか?」
「それは当日のお楽しみ。お前が驚かなきゃ、俺が面白くないだろう?」
「私は別に先輩を面白がらせるために驚いてるわけじゃ……って、やっぱり面白がってたんですね?!」
「当然だろ。じゃあ、1時に。俺を待たせるなよ」
「……!」
返事をまったく聞かずにスタスタと去っていく後ろ姿に、香穂子は思わず抗議の手を上げる。
「あの、私にも都合とか……っていうか、どうして問答無用? なんで私が先輩の言葉に従わなきゃならないんですか?! いったい何を考えてるの~、柚木先輩!!」
言葉は、宙に虚しく響くだけだった。
* * *
カシャーン
繊細な草花の意匠を凝らした錬鉄製の扉が開くと、そこには別世界のような光景が広がっていた。
日曜日の昼過ぎ、迎えにきた黒塗りのリムジンが二人を運んだのは、よく手入れの行き届いた美しい洋館。
そして、季節の花が咲き乱れる広大な庭園だった。
「お前を連れてきたかったのはここだよ。この日のために貸し切っておいた」
「貸し切りって、この洋館をですか?!」
「そんなに驚くことはないだろう? まさか……ご不満?」
「と、とんでもない!!」
赤くなったり、青くなったり。
香穂子のくるくると変わる表情を、柚木は微笑みながら見つめる。
誰にも邪魔されず、この少女を独り占めして、怒ったり笑ったりさせられる空間。
それが今、彼が一番必要としているものだった。
少しからかっただけで、むきになって反論する。
かと思うと、しおらしく礼を言う。
万華鏡のような感情の煌めき。
広い庭を歩くうち、二人は分かれ道の前に来た。
樹木で見通しがきかず、どちらが邸に通じているのかわからない。
香穂子に選択を委ねると、ほとんど迷わずに一方の道を選んだ。
その迷いのなさに、柚木は思わず苦笑する。
「まったく。迷うってことを知らないんだな、お前は。これが間違った道なら、どうするつもりなんだ?」
「間違っていたら、また分かれ道まで戻ればいいんです」
「そう言うのを無駄足って言うんじゃないか?」
「私は無駄だとは思いません。間違ってたってわかるだけでも意味はあると思います」
「…………」
明るく答える声。
まっすぐに前を見る瞳。
柚木の家で、学校で、決して自分には許されなかった若木のように伸びやかな姿。
気づくと、腕を伸ばして香穂子を引き付けていた。
華奢な肢体が胸の中に収まる。
サラサラと流れる前髪にそっと口づけた。
それは間違いなく、柚木が自分の恋心に気づいた瞬間だった。
そして、二人の物語は新しいページへと進む。
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