<前のページ  
 

プロメテウス ( 3 / 3 )

 



胸がズキズキと激しく痛んだ。

甘やかな言葉と、それに流されてはいけないという想い。

愛しくてたまらない人だからこそ、離れることが彼女のためなのだと、妙にわかったような声が頭の中で響く。

「…………」

「…………私がいなくても……平気……ですか……」

小さな問いかけ。

幸鷹の肩がピクンと動く。

「………私は、幸鷹さんがいなければ……幸せになんか、なれません……」

「…………」

言葉より先に、花梨を抱いた腕が答えを伝えてしまう。

痛いほどに抱きしめられて、それでも彼女は微笑んだ。




理性がどれほどブレーキをかけても、のどの奥から絞り出すように発せられる声を止められなかった。

「……そばに……いて…くださいますか……」

一瞬息をのみ、コクンとうなずく。

「はい、ずっとそばに」

「……どんなに苦しくても……?」

「どんなに辛くても、幸鷹さんがいる場所に」

ようやく幸鷹は、花梨の目を見た。

まっすぐ見返す瞳は、喜びできらきら輝いている。




「……あなたという方は……」

たまらずにもう一度、ぎゅっと抱きしめる。

「……花梨……」

「!!」

ものすごい勢いで花梨の全身が赤くなり、次の瞬間、腕の中の身体が力を失った。

「!?」

危うく膝から崩れ落ちそうな花梨を支える。

「み、神子殿?!」

「!!!!!!」

耳まで真っ赤になった彼女は半泣きだった。

「神子殿?」

「ず、ず、ずるいです、幸鷹さん」

「はい?」

「い、いきなり名前呼ぶんだもん……!」

「あ……」




さっきまで、何者にも負けない強さを見せていた少女が、今にも消え入りそうなくらい恥ずかしそうに俯いている。

幸鷹はわき上がってくる温かい感情を、もう抑えようとは思わなかった。

「けれど、あなたがもう神子でないのなら、お名前を呼ばざるを得ません」

「そ、それはそうなんですけど…」

そっと抱き寄せ、耳元に囁く。

「少しずつ慣れてください。花梨殿」

「は、はい……」

「……花梨……」

「だめ~~っ!! そっちはまだダメです~~っ!!」

腕の中でジタバタ暴れる花梨を目を細めて見守る。

「では、今日のところは諦めましょう、花梨殿」

「……お、お願いします……」

この愛おしい存在……。




幸鷹はにっこり微笑むと、花梨の手をしっかりと握った。

「花梨殿……あなたはやはり、私の道を照らす光です。神子でなくなった今も、これからも…」

「幸鷹さん……」

「邸に戻るまで、この手を取ったまま歩いてもよろしいですか」

「は、はい」

重ねた手から、未来を生きる勇気や希望が流れ込んでくる気がする。

ぬかるみを避けながら、ゆっくりと紫姫の待つ邸への道を歩き出した。

彼女がこの世界に残ると言ったら、あの健気な少女はどれだけ喜ぶだろう。

ようやく心を開いた兄とともに、きっと支えとなってくれるはずだ。

思いを巡らせていると、花梨がふと顔を上げた。

「幸鷹さん、ギリシャ神話のプロメテウスは、ずっと断崖に縛られたままなんですか?」

「え…?」

唐突に質問されて、幸鷹は立ち止まる。

「……いえ、確か、……ヘラクレスに救われたはずです」

遠い記憶の中の物語。

「ヘラクレス?」

「神々の王ゼウスと人間の間に生まれた半神の英雄です」

花梨の顔がパッと輝いた。

「じゃあ、自分が火を与えた人間の子供に救われたんですね!」




「………確かに」

幸鷹は呆然とつぶやいた。

「幸鷹さん?」

「しかもヘラクレスの父は、プロメテウスに罰を与えたゼウス……。これは……皮肉ではなく、赦し……なのかもしれませんね」

「ゆるし…?」

幸鷹は穏やかに微笑むと、ゆっくりと説明した。

「ゼウスは『人間には過ぎた力』を与えたプロメテウスを罰した。けれど時は流れ、人間はその力を使いこなせるようになった。
神々と人の力の融合を象徴するヘラクレスは、ついにプロメテウスを解放する……。
彼には赦しが与えられたのです」

「火を与えたことは、結局正しかった……?」

真剣な目で尋ねる花梨を見つめ返す。

「……ええ。……どれほどの年月、プロメテウスが苦しみ続けたかはわかりませんが」

花梨がギュッと幸鷹の手を握った。

「素敵なお話…ですね」

つられて幸鷹も微笑む。

「そうですね」




「「あなたとともにならば、きっとどんな苦難にも耐えられるから」」



お互い、その言葉はあえて呑み込んだまま、雪解けの道を歩き出す。

重すぎる決断をした直後だというのに、二人の心にはすでに早春の風が吹き始めていた。

花梨の京への残留が、八葉たちに告げられたのはその数日後だった。







 

 
psbtn