BASARAゆかりのスポット巡り


厳島(広島県廿日市市)

 

『遙かゆかりのスポット巡り』では、源平時代の厳島をご紹介しましたが、こちらでは毛利氏ゆかりの側面をご紹介します。
上の写真は毛利元就、隆元親子が再建した反橋(勅使橋)
昔、勅使が参拝する際に渡った橋で、その際は臨時に階段が取り付けられたそうです。

戦国時代の日本三大奇襲の一つとされる「厳島の戦い」はこの地で行われました。
BASARAの中の「厳島の戦い」とは違いますので、ご注意を(笑)。

1551年に中国地方の有力大名、大内義隆が家臣の陶隆房(後に晴賢)に謀殺されます。
毛利元就は、この陶晴賢と結んで安芸・備後に勢力拡大を図りますが、その勢いに警戒心を抱いた晴賢と対立。
両者の間の緊張が高まります。
とはいえ、この時期、元就の動かせる兵の数は晴賢の数分の一。
謀略で仲間割れを誘って兵力を削る一方で、厳島を決戦の場所と定め、戦の準備を始めました。

 

写真上左は、「厳島合戦跡」を解説する案内板の前に立つ元就さま(笑)。
上右はこの案内板のある場所から宮尾城跡を見上げた写真です。

1555年9月の合戦時、晴賢の兵力は約2万。対する毛利軍は4000程度でした。
海を渡った晴賢塔の岡(写真下)に陣を敷き、厳島の丘の上に築かれた宮尾城を攻撃しますが、これがなかなか落ちない。
攻めあぐねているうちに、暴風雨を突いて上陸してきた毛利軍の伏兵に挟み撃ちされ、逃げ道を村上水軍に断たれ、自刃することになります。
実は、宮尾城自体が晴賢をおびき出すために築かれたと言われています。
この戦のやり方を見ていると、BASARA「詭計智将」のキャッチフレーズに頷けますね。

 

現在の塔の岡にある五重塔(上左)と豊国神社(上右)。
五重塔のほうは1407年創建と伝えられているため、厳島の合戦の際にはすでに建っていたことになります。
向かい合って立つ豊国神社は、豊臣秀吉安国寺恵瓊に着手させ、その死とともに建設が中断された建物です。
外観は出来上がっているものの、内部は下の写真のようにがらんどう状態。
この広さから千畳閣、千畳敷と呼ばれるようになりました。
陶晴賢の本陣は、まさにこの場所に設けられていました。
 
宮尾城晴賢の兵たちが取り囲んでいたとき、元就は3500の兵とともに厳島神社の背後にある包ヶ浦に上陸、山を越えて塔の岡の本陣を急襲しました。
さらに大鳥居側の海(下)から元就の三男、小早川隆景の軍が上陸、宮尾城の兵と呼応して神社周辺は大激戦に。
不意をつかれた晴賢は、わすかな兵とともに山中に逃れたと言われます。 

勝利を収めた後、元就は戦で荒れた厳島神社の再建、修復に努めたため、現在も神社内で毛利家が寄進した建物を見ることができます。
最初にご紹介した反橋以外にも、永禄年間に毛利家が寄進した能舞台(下左)や、1556年に毛利隆元が寄進した天神社(下右)など。
これらの建物が赤く塗られていないのは、新しい建物であることを示すためだそうですが、今となっては十分古い(笑)。
どれも国の重要文化財に指定されています。

 

安芸高田市歴史民族博物館の項でもご紹介しましたが、この戦以前から毛利元就厳島を篤く信仰しており、三矢教訓状にも以下のような記載があります(現代語訳)。

「私には不思議に思うほど厳島神社を大切に思う心があって、長らく信仰してきました。そうしたところ、初めに折敷畑にて合戦の時、まさに合戦になろうというとき、厳島より石田六郎左衛門尉が御久米と巻数を捧げ来たりました。さては神の不思議な力である神変があるのだと思い、合戦をますます進めて勝利しました。
(中略)
さてはこの島で大勝利を得る吉兆だと。元就が渡海するときにこのような巡り合わせになるのだから、厳島大明神のご加護もあると内心安堵していたのです。だから、厳島神社を皆々御信仰下されば本望この上ありません」


まあ、この方の手紙がくどいのはデフォルトなんですが(笑)、それにしても厳島愛が感じられますね。

 

593年に創建され、1168年に平清盛によってほぼ現在の姿となった厳島神社
本社を中心に客神社(まろうどじんじゃ)、門客神社(かどまろうどじんじゃ)、大国神社(だいこくじんじゃ)、天神社などの各社が配置され、その間に朝座屋、高舞台、楽房、能舞台などが設けられています。
間をつなぐ廻廊は108間に及ぶとか。

 

このすべてを愛した毛利元就
彼の目は常に、美しい瀬戸内と、それを望む安芸の地に注がれていました。