城上神社(島根県大田市)
石見銀山エリアにある城上神社(きがみじんじゃ)は、1434年に当時の領主大内氏によって現在の社殿の東側にある愛宕山に移され、1577年に毛利氏によって現在の場所に遷座されました。
1800年の大火で一度焼失しましたが、1812年に再建され、今に至っています。
どう見てもお寺!の拝殿に太い注連縄が飾られ、奥にある本殿は出雲大社風建築。
拝殿の天井には梶谷円隣斎守休が「鳴き龍」を描いています。
龍の頭のところで手を叩くと、叩いた人にだけ音が共鳴して聞こえるというちょっと不思議な作りで、周りで見ている人間には何が「鳴き」なのかわかりません。
ぜひ、ご自分で叩いてみることをお勧めします。
正面から見た拝殿(上)。江戸の亀戸天満宮を手本にしたと伝えられているそうです。
境内にある亀石(下左)には不思議な伝説が伝わっています。
もともと愛宕山の城上神社境内に祀られていたこの石は、現在の場所に神社が遷座された際、手違いで置き去りにされました。
「自分の甲(亀甲)は城上神社の紋所だ、行かなければ」と自ら山を下ったものの、重さのために川底に沈み、以来この川のそばを通る人は、小豆をとぐような音を耳にするようになります。
物好きな人間が引き上げ、大正時代まで「小豆石」として道端に放置されましたが、信心深い男性の夢の中に現れ、神社の境内に上げてほしいと訴えたことで、ついにこの境内に祀られることができたというのです。
1577年に置き去りにされて、大正時代までかかって戻ってきた!!
スケールの大きい話です!
城上神社の手前(下右)には、江戸幕府の代官所跡にたてられた明治時代の建物が残され、石見銀山資料館として公開されています。
大内氏は長くこの地を治めてきましたが、家臣の陶隆房(後の晴賢)の謀反により1551年に滅亡しました。
元就は陶氏と連合したものの、後に対立し、1555年の有名な「厳島の合戦」で晴賢を自刃に追い込んで、石見銀山を含む大内領を自領に加えました。
この「厳島の合戦」での周到さを見ると、『戦国BASARA』の毛利さんの智将という位置づけに納得がいきます。
2万から3万と言われる陶氏をわずか4000の兵力で打ち破った巧みな戦術については、また別の機会に。