目障り

 


「ねえ、柚木、セレクションにいい曲って何か心当たりない?」

教室の自分の机の前に座り込んで、必死で見上げる火原の顔を、柚木は意外そうに見つめた。

「……トランペットの曲は火原のほうがずっと詳しいだろう?」

「あ、おれじゃなくてバイオリンのさ、日野ちゃんの曲だよ」

「日野……って、あの普通科の?」




ほんの数週間前、突然、開催を告げられた学内コンクール。

その参加者顔合わせの場で一番人目を引いたのは、普通科から参加することになった少女だった。

その時から、彼女の素人ぶりには驚かされていたのだが……。




「火原が日野さんから相談されたの?」

「ううん、そうじゃないけど、昨日楽譜たくさん持って頭抱えてるの見ちゃったからさあ」

「……そう……」




何事かを考えるように、柚木が虚空を見つめる。

ワクワクした顔で待っている火原に気づくと、

「あ、ごめん。曲のことを考えていたわけじゃないんだ。
残念ながら、僕もバイオリンの曲には明るくないしね。
月森くんに尋ねてみたらどうなのかな」

と微笑んだ。




「そっか、月森くんって同じ2年生だったよね。
よし、日野ちゃんに教えてくる!」

枝を投げられた犬のごとく、火原は教室を飛び出していった。

その後ろ姿を見ながら、

「まあ、月森くんに相談できるくらいなら、
日野さんも最初から悩んでいないだろうけどね……」

とつぶやく。




残り1年となった高校生活。

最後の「自分のための時間」を、ゆっくり楽しみたいと思っていたのだが……。



(日野……何と言ったか。
目障りなようなら、手を打たなければ)



* * *



「……日野さん?」

練習棟では目立つ、普通科の制服に向かって声をかける。

「?! あ、柚木先輩!」

その反応を見て、柚木は彼女が自分を見ても頬を染めない希少なタイプだったことを思い出した。

(……面白くないね)




「これから練習? セレクションの曲は決まったのかな?」

横に並んで歩きながら、親切この上ない微笑みを浮かべて尋ねる。

「はい! 何とか。まだまだ下手くそなんで、練習しないと」

香穂子は少し照れたように笑った。

その翳りのない表情を、曇らせてみたくなる。

「普通科からの参加者は、注目の的だからね。
前のコンクールよりずっと観客が集まるだろうって、金澤先生が面倒くさがっていたよ」

「!!」

案の定、香穂子の表情が硬くなった。




「ああ、そんなに緊張しないで。
音楽を楽しむのに、音楽科も普通科もないからね。
僕は今回、日野さんが参加してくれるのはいいことだと思っているよ」

「……ここまで来たら……そう思うしかないですから」

「?」

「音楽科にも出たくて出られない人がたくさんいるって……。
だから、その分も頑張るしか……」




(ふうん……)

もっとあっけなくペチャンと潰れるタイプだと思っていたのに、案外としぶとい。

(馬鹿だね。そんなふうだと、余計からかいたくなるのに)




「そういえば、柚木先輩はピアノもうまいんだって、火原先輩が言っていました。
最初はピアノを習っていたんですか?」

話題を変えようとしたのか、香穂子が話しかけてくる。

柚木は優雅に微笑んだ。

「小学校に上がる前からね。
フルートを始めたのは小学校の半ばぐらいからかな」

「……やっぱりプロを目指す人って違うんですね……」




突然、柚木が立ち止まったので、一緒に廊下を曲がろうとしていた香穂子はぶつかりそうになった。

「キャッ」

「……日野さん、もしかして……」

「え?」

しばらく香穂子の顔を見つめた後、柚木がぷっと吹き出す。

「え? ど、どうしたんですか? 柚木先輩!!」




しばらくくすくすと笑った後、柚木がようやく口を開いた。

「ご、ごめんね。あんまり意外な言葉だったから」

「何が……ですか?」

いまだに理解ができない香穂子に微笑みかける。

「日野さん、考えてみて。
この星奏学院だけで、毎年音楽科を何人が卒業していくか。
その人たちが全員プロの音楽家になったら、世の中は音楽家だらけになってしまうよ」

「あ……!」

ようやく、香穂子が赤くなった。




「プロの演奏家はもちろん、学校の音楽教師だってとても狭き門なんだよ。
だから多くの人は、趣味として音楽をたしなむ程度の人生を歩むんだ。
どれだけ子供のころから学んでいてもね。
これだけはどうしようもない」

「でも、柚木先輩は……」

「僕も例外ではないよ。
プロでやるしかないほど圧倒的な才能に恵まれていたら……」



一瞬、仮面が外れたように柚木の目に渇望感が浮かんだ。



「音楽をやるためなら、ほかのすべてを捨てられるほどの情熱をもっていたら……」

「……先輩……?」

「モーツアルトのごとく、共同墓地に埋められる羽目になっていたかな」

くすっと笑うと、香穂子の背を押した。




「練習室を予約しているんだよね?
これ以上引きとめたら、伴奏者の人に悪いからね」

「あ、本当だ! すみません、じゃあ、失礼します」

携帯の時刻を見ながら、香穂子はパタパタと走り去っていった。



無言で見送りながら、ふっとひとつため息を落とす。

(厄介な女……)



あまりに音楽に無知なためか、ほかの女子のような遠慮がないためなのか、普段は完ぺきに抑え込んでいる本音をうっかり漏らしそうになってしまう。



(やはり、何か手を打つべき……かな。
これ以上目障りになったら、ね)




顔には天使の笑みを浮かべながら、柚木は音楽棟への廊下を歩きだした。

これまで経験したことのない、楽しさを味わいながら。






 

 
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