くしゃみのあと
軍議を終え、楼台から部屋に戻った千尋は乱暴に寝台に腰を下ろした。
「もう~~っ! どうして私のほうが動揺しなきゃいけないのよっ!」
今日も会議の間中、忍人の顔をまともに見られなかった。
たまに視線が合うと、顔が勝手に赤くなる。
忍人も、気まずそうに目を伏せる。
「覚えていないとか言って、そんなわけないじゃない!!」
両手でポコポコと寝台を叩きながら、千尋は涙ぐんでつぶやいた。
「不快な思いをさせたようですまなかった。よく覚えていないが、きみを傷つけたのなら心から謝罪する」
実はあの後、忍人から伝えられた言葉のほうがショックだったのだ。
「…名前だって呼んだのに……」
思いは再び、あの日へと戻る。
* * *
長時間の付き添いで疲れた千尋は、寝台の横でうとうとしていた。
どのくらいたったのか、握られた手が引かれるのに気づく。
「…? 忍人さん?」
目をこすりながら見ると、引かれた手は忍人の胸元に置かれていた。
「…起き…て?」
応えるように、ゆっくりと忍人の目蓋が開く。
そして、ぼんやりとした瞳が枕元の千尋をとらえた。
「…ち…ひろ…」
「はい…?」
続きを聞くため千尋が身を乗り出すと、忍人がふわりと柔らかく笑った。
これまでに見たことがないほど優しく。
「…!」
呆気にとられて赤くなる千尋の手を、ようやく忍人が離す。
そしてそのまま、肩に腕を回して抱き寄せた。
(??え? え? 何?)
強引な動きではないが、自分の身に起きていることがわからない。
千尋を抱きしめた忍人は、そっと唇を重ねた。
(えええええええ~~~~~~~っ??!!!)
* * *
「………覚えていないわけ、ないじゃない…」
千尋は真っ赤になってもう一度つぶやく。
名前で呼ばれたのもすいぶんと久しぶりで、あのとき、愛しくてたまらないものを見るように微笑んだ瞳が忘れられない。
あとにも先にも、初めて見る優しい笑顔。
「バカ将軍」
ボスッと寝台を叩く。
「スケベ将軍」 ボスッ
「寝ぼけ将軍」 ボスッ
「覚えてないとか言うな」 ボスッ
「初めてだったんだぞ」 ボスッ
「嫌じゃ……なかったんだから」 ボスッ
ゴホンと、控えめな咳払いが聞こえて、千尋は弾かれたように顔を上げた。
戸口に立っていたのは……
「…その……、いろいろと思い出してきたので、……あらためて謝りにきた」
「お、お、お…☆?!」
「その寝台の代わりに俺を叩いてもらってもかまわん。…それできみの気が済むのなら」
「…!!」
あまりのタイミングに、千尋は声も出ない。
忍人は大股に部屋に入ってくると、
「…前に屈んだほうがいいか? それとも横に座ったほうがいいか?」
と尋ねた。
「! た、叩いたりしません! その、こ、ここにどうぞ」
自分の脇を指して、千尋は赤くなった。
指された場所をしばらく見つめた後、忍人は素直に座る。
「失礼する。……それで、あの件だが」
「……はい」
「…正確には、『どこからが現実か』よく覚えていないんだ」
「……え?」
思わず見た忍人の横顔は、かすかに上気していた。
「夢の中でも……ずっときみがそばにいたので、その境目がわからない」
「!」
千尋の顔がさらに赤くなる。
「…ゆ、夢の中でも…?」
「…だからてっきり、あのときも夢の続きだと思った」
唐突な沈黙。
忍人はそれ以上話す気はないらしい。
しばらく迷った後、千尋は思い切って尋ねた。
「あの……その夢の中で、私は何をしていたんでしょう…」
「…? 別に何もしていない。そばにいて、……俺は、きみの手を握っていた」
「それ、夢じゃないです」
「何?」
「あの……忍人さん、私の手をずっと握っていました」
「! それは、すまなかった。痛い思いをさせたなら」
千尋は頭を大きく左右に振った。
「痛くはなかったです。恥ずかしかっただけで。……でも、あの……じゃあ、どうして……」
キスを…? とは、さすがに聞けない。
忍人は質問の意図を悟り、ゆっくりと言葉を探しながら答えた。
「……そばにいて……微笑んでいるきみを……いとおしく思ったからだ」
「!!」
しばらく沈黙した後、忍人が再び口を開いた。
「本当にすまなかった。謝って済む問題ではないが、謝ることしか俺にはできん」
深々と頭を下げる。
「…もう、いいです。私こそ、病人を叩いちゃって、反省してます」
「いや、あんなことをしたんだ。斬られても文句は言えん。いや……」
「?」
「もし誰かがあんなことをしようとしたら、ためらうな。必ず斬りつけろ」
千尋の目をまっすぐ見て忍人が言った。
「は、はい…」
「本当に……悪かった」
もう一度頭を下げると、忍人は立ち上がった。
「忍人さん」
「?」
振り返ると、千尋が真っ赤な顔で見つめている。
「その……。ちゃ、ちゃんと起きているときに、私の意思を確かめてからなら……こ、断らないかもしれません…から…」
「…何をだ?」
「!!」
「千尋?」
「何でもありませんっ!! お疲れさまでした!!」
いきなり背中を向けた千尋を訝しみながら、忍人は部屋を出て行った。
その後、千尋の寝台がまた新たなパンチを浴びたのは言うまでもない。
「鈍感将軍~!!」 ボスッ
「バカ~っ!!」 ボスッ
「女に言わせるな~~っ!!」 ボスッ
「なにげにまた呼び捨てするし~~っ!!」 ボスッ
「……遠からず、修理が必要ですね、あの寝台」
はからずも、廊下ですべて聞いてしまった風早は、立ち去りながら大きな溜息をついた。
「まったく、手のかかる2人だ……」
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