効果はてきめん
「神子殿は何でも自分でなさろうとするのですね」
局に置かれた大きな屏風を、懸命に動かそうとしていた花梨を見つけて幸鷹が言った。
「あ、幸鷹さん! す、すみません、誰かにお願いするほどのことじゃないと思ったので……」
幸鷹が軽々と運ぶのを見て、花梨は恐縮する。
「いえ。依頼心が強くないというのは、美徳の一つでもありますよ。ただ……」
「まあ、幸鷹殿。ようこそいらっしゃいました」
所用で外していた紫姫と深苑が、急ぎ足で局に入ってきた。
同時に深苑が、屏風を整えている幸鷹を見て鋭く声を発する。
「神子、幸鷹に何をさせている」
「いえ、深苑殿、私が勝手にしたことですから」
「ちょっと風が冷たかったので、場所を変えたくて。幸鷹さん、すみませんでした」
謝る花梨を見て、かえって悪いことをしたと幸鷹は思う。
彼女のいた世界では、使用人がいる家など一握りだったというから、人を使うことに慣れていないのだろう。
加えて花梨は人を思いやり、できれば自分のほうが役に立ちたいと願う性格のようだ。
それは龍神の神子としての資質なのかもしれないが、ほんの少し、危うさも感じる幸鷹だった。
* * *
幸鷹の懸念は案外早く現実となった。
朝議を終え、牛車を馬に乗り換えた幸鷹が四条の邸を訪れると、青ざめた紫姫が飛び出してきたのだ。
「幸鷹殿、どうか神子様をお探しください! 警護の者と邸を出たきり、お戻りにならないのです!」
「警護の……? 誰か八葉はお供していないのですか?」
「本日はあいにくどなたもおいでにならず……。
怪異の報告が届きましたので、神子様が様子だけ見に行くとおっしゃって、ああ、もう一刻以上たちますわ!」
「報告があった場所をお教えください! 私が向かいます!」
馬の腹に蹴りを入れると、幸鷹は都大路を矢のように駆けた。
(そうだ、彼女は自分より他人を優先しすぎる! それが招く危険をわかっていないのだ……!)
前方に人だかりが見えてくる。
その中心に、真っ青な顔で座り込む少女がちらりと見えた。
「神子殿!」
幸鷹は打刀を抜き放ちながら馬から飛び降りた。
集まっていた人々が驚いて道を開ける。
花梨は朦朧とした表情で、ゆっくりと顔を上げた。
手元にあるのは石の破片。
「……幸……た……かさん……?」
「それは呪詛の種ですか?! 浄化されたのですか?」
花梨はひとつうなずくと、そのまま崩れるように倒れ込む。
華奢な身体を支えながら、幸鷹は初めて、護衛の武士が道端に倒れていることに気づいた。
* * *
「八葉が神子殿を守るのは、その間に神子殿に果たしていただきたい役割があるからです」
四条の邸の寝所で薬湯の椀を抱える花梨に、幸鷹は御簾越しに語り掛けていた。
「我々は怨霊の気力を削ぐことはできても、封印することはできません。これは役割分担なのです。
ですから、神子殿が守られることに負い目を感じる必要はありません」
花梨が顔を赤くして、こくんとうなずく。
「一刻も早く穢れを除き、民に害が及ばないようしたいというお気持ちはわかります。
しかし、八葉を連れぬ行動は神子殿のみならず、今回お供した武士のような犠牲を出しかねません。
幸い、すぐに息を吹き返したようですが」
「ほ、本当にすみませんでした! 私、自分なんかのためにお願いするのが申し訳なくて……!
でも、一人じゃ何もできないことがよくわかりました。もう無茶はしません。本当にごめんなさい!」
泣き声が混じった必死の謝罪に、幸鷹は自分の言葉選びの誤りを悟った。
こほんと咳払いすると、御簾の向こうの花梨の肩がビクンと動く。
(しまった……)と、こめかみに手を当てながら、怯えさせないようゆっくりと口を開いた。
「どうか……神子殿、そのようにご自分を責めるのはおやめください。
あなたの心根がこの上なく美しいことは私もよくわかっております。
だからこそ、その美しさゆえにあなたが傷つくことは避けたいのです。
……いえ、違いますね。これは私が本当に言いたいことではない……」
そのまま沈黙が続く。
珍しく逡巡する幸鷹に、花梨は伏せていた顔を上げた。
「……?……」
考え込む彼の横顔が、御簾越しに見える。
やがて決意したように顔を上げると、幸鷹は花梨を正面から見つめた。
「全身の血が引いたように感じたのです、あなたに何かあったのかもしれないと知ったとき。
いったいどうすればいいのか、あなたを失うことになったら、私はこの先どうやって生きていけばいいのか。
自分でもまさかこれほど取り乱すとは思いませんでした。
それほどにあなたはいまや、私にとってかけがえのない方なのです。
ですから八葉というより私の個人的なお願いになってしまいますが、どうか……どうか神子殿、御身を大切になさってください。あのような思いは……二度としたくありません!」
「幸鷹さん……」
驚くほどまっすぐな言葉に、花梨は思わず頬を染めた。
言った幸鷹のほうも、自分の言葉に照れたように目をそらす。
「……申し訳ありません。このようなことは言うべきではありませんでした」
「ううん。本当にすみませんでした。今度こそ心から……誓います。幸鷹さんを心配させるようなことは二度としません」
先ほどとは打って変わった穏やかな花梨の声に、幸鷹は自分の告白が功を奏したことを知る。
「……そうですね。あなたは自分よりも他人を気遣う方。ならばどうか、無茶をする前に私のことを思い出してください」
「はい」
花梨は大きくうなずくと、御簾越しに幸鷹と微笑みを交わした。
* * *
「たいそう情熱的な口説き文句だったじゃないか、別当殿」
邸を出た途端、暗闇の中からよく響く声が聞こえた。
「翡翠殿……! このような時刻から神子殿をお訪ねになるのはお控えください」
「おやおや。私はどこかの無粋な役人の説教を止めるためずっと待機していたのだよ。
ところがその男、途中から私の白菊を口説きだしたのでね」
「口説いてなどおりません!」
ようやく闇から姿を現すと、翡翠は実に楽しそうに微笑んだ。
「無自覚とは面白い。まあそれはともかく、君の言葉は確かに神子殿によく届いたようだね。
早速その手を私も使わせていただくとしよう」
「? どういう意味ですか?」
幸鷹の問いには答えず、翡翠は背を向けて歩き出した。
「翡翠殿!」
「八葉の勤めを果たすだけだよ。神子殿が心置きなくわれわれを頼ってくれるようにね」
「……?!」
夜風の中に、翡翠の笑い声が聞こえた気がした。
* * *
翌朝、不安を感じた幸鷹が四条の邸を朝早く訪れると、花梨の局の前にはすでに七人の八葉たちが勢ぞろいしていた。
「神子殿、あなたの髪の毛一本でも損なわれることがあればこの頼忠、生きてはおりません」
「花梨、お前がこれ以上無理するようなら、俺は京職を辞してお前のそばに張り付くことになるんだぞ」
「オレだって同じだぜ、勝真。花梨が心配で寺の仕事なんかしてられない。ああ、もう、このまま寺に連れて行ったほうがいいのか?!」
「それはお控えください、イサト。花梨さん、あなたが傷つくことは、僕自身が傷つくことの何倍も、何百倍もつらいのです。もしも僕のことを少しは想ってくださるのなら……」
「おやおや、彰紋さま、そこから先はお譲りいただけませんか? 私の白菊、君がもし私のことを男として、いや、今のところは八葉としてでも構わないが、想ってくれるのなら、その可憐な花びらを常に私に守らせてくれまいか」
「ああ、神子、物の数にも入らぬこの身ですが、神子をお守りできないならば、もはや生きながらえる意味さえ失ってしまいます。どうか八葉の役目を果たさせてください」
「解せぬ。八葉は神子の道具だ。なぜ使わぬ。使われぬ私に存在の意味などない」
「……これは……」
呆然と佇む幸鷹の横で、
「皆さま、さすがです。神子様はご自分よりも他の方を気遣われるお方ですから、これでご無理を控えてくださるでしょう」
と、紫姫がにこにこと笑っていた。
「翡翠……(怒)」
以後、花梨が八葉を伴わずに外出することはなくなったという……。
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