希うもの〜こいねがうもの〜 ( 1 / 2 )

 



「!!」

突然腕をつかまれ、物陰にひっぱりこまれて敦盛は驚いた。

「黙って静かにしていろよ」

小さく囁く声には聞き覚えがある。

さっきまで歩いていた道を、数名の武士たちがあわてて走り抜けるのが見えた。




バタバタバタバタ

何度か辺りを行きつ戻りつした後、彼らは肩を落として来た道を戻っていく。

ようやくつかまれていた腕が解放された。

「……ヒノエ……なのか?」

ゆっくりと振り向きながら、敦盛は問い掛ける。

はたして、赤みがかった髪と、しなやかな体躯をもつ幼なじみがそこに立っていた。

「おいおい、勘弁してくれよ、敦盛。平家の人間が今の六波羅をふらふら歩くなんて、正気の沙汰じゃない。案の定、源氏の連中につけられていただろう?」

「あれは……」

「気がつかないなんて、お前らしくないぜ」

「…………」

何から説明すればいいかわからず、敦盛は思わず黙り込んだ。

それを落ち込んでいると解釈したのか、ヒノエは明るく笑って肩を叩く。

「まあ、とりあえず夜になるまでオレのねぐらに隠れていろよ。こっちだ」

返事も聞かずに軽やかに走り出す。

敦盛は慌ててその背中を追った。



* * *



「食うものにも、着るものにもとりあえず困ってはいないようだな」

「ねぐら」と呼ぶにはあまりにも優美に調えられた部屋の中で、ヒノエは敦盛の姿を眺める。

膳の上に用意された、とりどりの唐菓子と白湯の椀。

熊野の湛快殿の邸を思い出させる……と、敦盛は思った。

「……ああ、今は幸い……。先日、三草川で負傷してしばらく養生していた」

「三草川……。あそこじゃ源氏がかなり手ひどくやられたと聞いてる」

「……そうだな」

「強大な怨霊が暴れたと」

「…………」

うつむいて言葉を探す。

しばらくその様子を見つめた後、ヒノエは不意に立ち上がった。




「……このところ、烏たちの持ってくる情報にブレがあるんだ。特にお前や平家に関して、間違った話が数多く耳に入る」

腕を組み、室内に背を向けて御簾の向こうの庭を透かし見ている。

「間違った……話……?」

敦盛は、腰を下ろしたまま問い掛けた。

「ああ。最初のひどい間違いは、お前が死んだって話だ。惟盛や経正も、その後次々に命を落としたと」

「…………」

「オレだって還内府と呼ばれているのが、あの重盛じゃないのはわかっている。だが、最近じゃ清盛殿も存命だと言ってくる」

「ヒノエ」

ヒノエは振り向き、口を開こうとする敦盛を押しとどめるように大股に歩み寄った。

すっと身を沈めると、鋼で戒(いまし)められた手首を痛いほど強く握る。

「敦盛。お前はオレの知ってる敦盛なのか?」

まっすぐな眼差しが、敦盛の瞳をとらえた。




「…………」

「…………」

じゃらりと、鎖が冷たい音をたてる。

ヒノエの目を見たまま、敦盛が静かに口を開いた。

「…………違う」

「どう違う」

「……私は………」

一瞬、瞳が哀しげに細められる。

「……もう、……この世のものではない…………」

「……!……」

敦盛の肌の温かさを確かめるようにゆっくりと、ヒノエは彼の手を離した。

「…………すまない」

「謝ることじゃ……ないだろう……」




沈黙が部屋の中を覆った。

ヒノエは横を向いて考え込んでいる。

その傷ついたような表情に胸を痛めながら、敦盛は言葉を継いだ。

「……兄上は倶利伽羅峠で、惟盛殿はその後に亡くなられ、いずれも蘇られた。叔父上が蘇られたのも真実だ」

「なぜだ……? お前の手は温かい。京を彷徨う怨霊たちとはまるで違うじゃないか」

ヒノエの問いに応え、敦盛は目の前に自分の手をかざした。

じゃらりと、重い鎖の音がもう一度響く。

「……こうして自分を戒めていなければ、京を彷徨う怨霊たちと変わらぬ『本性』が暴れ出してしまう。人間の血を求め、殺戮を繰り返してしまう。……三草川でそうだったように」

「敦盛……!」

「ヒノエ、どのような姿であろうと、どのような理由をつけようと、怨霊は理に反した存在だ。この世に留まり続ける限り、罪を犯し、苦しみ続ける」

「敦盛」

「私は……おのれがやるべきことを見つけたのだ」




敦盛は、静かに微笑んだ。

ヒノエは、その穏やかな表情に彼の覚悟を読み取る。

そして、すべての言葉を呑み込んだ。

呑み込まざるを、得なかった。

「……やがて、熊野の烏たちがお前に私の『やり始めたこと』を報告するだろう。ヒノエにならきっとわかってもらえると思う」

邸を辞するため、敦盛は立ち上がりながら言った。

「お前が源氏の邸に出入りすることを……か」

「そうだ。私は私の意志で、この道を選んだ」

「……なら、止めても無駄だな。お前はいざとなると頑固だから」

「ありがとう。今日は、お前に会えて本当によかった。世話になった」

敦盛は丁寧に頭を下げる。

背を向けて立ち去ろうとする彼を、ヒノエは腕をつかんで止めた。




「ヒノエ……?」

不思議そうな敦盛の声。

「……オレは何よりも大切な熊野を、すべての敵から守らなきゃいけない」

遠くを見たまま、ヒノエは言った。

「ああ。もちろん、わかっている」

「だが多分、オレたちの道はどこかで重なる」

「……!」

敦盛は驚いて、ヒノエの顔を見た。

「そのときもし敵同士でなければ……少しはオレのことを頼りにしろよ」

悪戯っぽい顔でそう言うと、片目をつぶってみせる。

幼い頃から変わらない、ヒノエがそこにいた。

「ヒノエ……!」

温かい気持ちが、胸にわき上がるのを敦盛は感じた。