帰還前夜 ( 2 / 2 )
その晩、ごくごく内輪で婚姻の儀が行われた。
あらかじめこれが単なる形式である旨を告げられていた八葉たちは、宴への出席を見合わせた。
もっとも、花梨が幸鷹と共に元の世界に帰ることは事実なので、彼らの胸のうちはそれなりに複雑だ。
五行の気の流れを読んだ泰継が帰還の日を定め、幸鷹は院や帝をはじめとする白河や内裏の要人に次々と面会して、事情説明と挨拶に努めた。
検非違使庁の業務は「完璧な引き継ぎ書」のおかげでスムーズに進んだが、藤原家の氏長者である兄や、宇治に隠居している義母の元を訪れる必要もあり、幸鷹が再び四条の尼の邸に立ち寄れたのは、なんと帰還の前夜だった。
闇に包まれた簀子縁を、紫姫がかざす手燭の灯りを頼りに歩く。
よほど待ちかねたのか、御簾の向こうで花梨が弾かれたように立ち上がった。
「幸鷹さん!」
「神子殿、大変お待たせして申し訳ありませんでした」
幸鷹が御簾をくぐるのを見届けると、紫姫は「お帰りになられる際には声をおかけくださいませ」と、再び簀子縁を戻っていく。
その背中に
「ありがとう、紫姫! 眠くなったら寝ちゃって大丈夫だからね~!」
と、花梨は声をかけた。
(神子殿らしい……)と思いつつ、幸鷹は懐から書き付けを取り出す。
「では早速、明日の仔細を確認いたしましょうか」
「はい!」
何時に行動を開始し、どのような手順を経て準備を整えるか。身支度や、持参する物品の数々……。
それらを確かめた後は、時空を超える際、離れ離れになっても会えるように、互いの住所や連絡方法を記したメモを交換する。
幸鷹は実家が八年前と同じ場所にあるかも不明なので、海外の住所や祖父母の住所も含めたさまざまな情報を花梨に託した。
「どれか一つでも、神子殿につながればと思いまして」
「幸鷹さん……」
アルファベットと日本語で丁寧に書かれたメモを受け取った花梨は、大切にお守り袋に入れ、身に着ける。
「私、何があっても絶対に幸鷹さんを探し出しますから」
「もちろん私も全力を尽くします」
二人は互いの決意を確認するかのように、見つめ合った。
「あ、あの……私、幸鷹さんに受け取ってもらいたいものがあるんです」
しばらく後、花梨がためらいがちに口を開く。
「受け取ってもらいたいもの……ですか?」
「はい」
花梨は後ろを振り返ると、二階棚に置いた文箱の中から和綴じの冊子を取り出した。
「これを……持っていてほしいんです」
「……これは?」
パラパラとめくってみると、中には慣れない筆で一生懸命つづった文章がかなりの分量記されていた。
「八葉のみんなや、千歳、紫姫や深苑くん、尼君のおばあさまにもいろいろ聞いて、幸鷹さんがこの世界に来てからの八年間のことを、なるべく詳しく書いてみたんです」
「私が来てから……ですか? こんなに克明に……。さぞかし大変だったでしょう。ありがとうございます」
そう礼を言いながらも、「けれどなぜ?」と、幸鷹は目で問い掛ける。
「あの、ほら、何ていうか、卒業アルバム……みたいな? 幸鷹さんが、後になってもこちらのことを思い出せるように。
写真は充電切れで撮れなかったから、何か代わりになるものを、と思ったんです」
あわてたように言葉を並べる花梨が本心を口にしていない気がして、そのまま静かに見つめた。
徐々に、花梨の表情に翳りが落ちる。
「それにもし……もし、時空を渡るときに、私も幸鷹さんもお互いのことを忘れてしまって……
二度と会うことができなくなったら…………。
幸鷹さんが記憶のない八年間について一人で悩むことになってしまったら……。
せめて、この冊子を読んで、この京でとても有意義に過ごしたんだと……
素晴らしい八年間だったんだと思えたらいいなって……。
たとえ内容が信じられなくて、おとぎ話に思えたとしても……」
「……!」
幸鷹は花梨が、自分よりずっと悲観的な未来図を描いていることに驚いた。
確かに時空を渡る旅で、自分と花梨に何が起こるかはまったくわからない。
二人が同じ時空にたどりつけるのか、お互いのことを覚えていられるのか、再会が叶うのか……。
もしすべてが失われて、幸鷹が空白の八年だけを抱えて元の世界に戻ることになってしまったら。
花梨がそれを心配して、この長い物語を懸命につづってくれたのだとわかる。
「……この短い期間に、ずいぶんご苦労されたことでしょう」
「ううん、そんなことないです。八葉のみんなが訪ねてきて、私の知らない話をたくさん聞かせてくれたし。
あ、翡翠さんは、伊予で初めて幸鷹さんに会ったときの話もしてくれたんですよ」
「翡翠殿が?! どの部分ですか? 彼が素直に真実を語るとは思えません」
猛然と中身を読み出した幸鷹を、花梨はあわてて止める。
「よ、読むのは後にしてください。誤字とか絶対たくさんあるし……。
でも、何とか今日中に渡したかったんです。間に合ってよかった」
「?」
「お誕生日おめでとうございます、幸鷹さん」
「え……」
「1月15日、ですよね。今の私には、こんなものしかプレゼントできないけど」
「……!!」
京にいた年月、彼が誕生日という概念を思い出すことはなかった。
何かの話のついでに教えたその日付を、花梨はしっかりと覚えていてくれたのだろうか。
黙りこんだ幸鷹に気づかずに、花梨は頬を染めて言葉を継ぐ。
「紫姫は、何かきちんとした物を用意すると言ってくれたんです。
でも、私はもう龍神の神子じゃないし、自分でできる『精一杯』を贈るほうがいいかなって。
もうちょっと字がうまかったらよかったんですけど、読みにくかったらごめんなさ……」
言い終わる前に、幸鷹に抱きしめられていた。
「……幸鷹さん?」
「たとえどれだけ離れた時空に飛ばされようと、たとえすべての記憶を消されようと、私は必ずあなたを見つけます、神子殿。いえ……花梨さん」
「!」
「あなたはいつも『精一杯』を私にくださる。ですから私は、決してあなたを見失うことはしないとここに誓います。
どうか私を信じてください」
衣を通して、幸鷹の体温が伝わってくる。
やわらかい、けれど二度と花梨を手離すことはないという決意を込めた抱擁。
「……はい。私も絶対にもう一度幸鷹さんに会いたいから。幸鷹さんを信じます」
目を潤ませながら微笑み返す花梨は、誰よりも美しかった。
幸鷹は軽く咳払いすると、
「……では、もう一つ誕生日プレゼントをいただいてもいいですか? 花梨さん」
と言いながら、少女の頬を掌で包んだ。
「え? でもほかには……」
戸惑う花梨に、少しいたずらっぽく笑いかける。
「物ではありません。そして念のために言うと、熱を測るわけでもありませんよ」
「え? あ……」
ようやく状況を悟った花梨の頬がぽっと色づく。
ゆっくりと顔を傾けた幸鷹は、ついに愛おしい少女の桜色の唇に触れたのだった。
* * *
翌日。
よく晴れた空の下、花梨と幸鷹を見送るべく、久々に八葉が勢ぞろいした。
「それが花梨の世界の男の服装なのか?」
もの珍しそうに、勝真が幸鷹の服装を眺める。
制服姿に戻った花梨の横で、幸鷹はスーツ(に可能な限り似せた服)を着用していた。
向こうの世界にいきなり放り出されても大丈夫なように、という花梨と紫姫の心遣いだった。
別れのあいさつが何度も交わされた後、泰継が呪を唱え、時空の狭間がゆっくりと姿を現す。
「花梨さん」
「はい、行きましょう、幸鷹さん」
見送りの八葉たちに深々と頭を下げた後、二人は手をつなぎ、狭間の中へと足を踏み入れる。
「そのように頼りないつなぎ方では、神子殿を守れまい。別当殿、しっかりと抱きしめたまえ」
「!? 翡翠ど……」
幸鷹が振り向いたとき、すでに声の主の姿は見えなかった。
「……」
「幸鷹さん」
「……不本意ですが、ここはあの男の助言に従いましょう」
ゴウッと、うなるような気が彼方から押し寄せてくる。
「花梨さん、失礼します」
言うなり、幸鷹は花梨を胸の中に閉じ込めた。
「どんな激流の中でも、あなたを離さずに済むように」
「……! 幸鷹さん、私も!」
必死にしがみついてくる少女を固く抱きしめる。
耳を弄するような轟音とともに、液体でも気体でもない「何か」の奔流が、二人を飲み込んだ。
すさまじい衝撃の中で、ぎゅっと目を閉じ、互いの温もりだけを頼りに時空を超える。
真冬の異世界、京から初秋の現代に。
怨霊の跋扈する平安京から、コンクリートとアスファルトが覆う世界に。
900年の時と次元の隔たりを超えて。
いきなり、明るい光が降り注いだ。
唐突に現れた青空の下、花梨と幸鷹は抱き合ったまま、立ち尽くす。
涼やかに響く鐘の音が、花梨の母校から聞こえてきた。
「「……!!」」
ここから、二人の新しい物語が始まる……。
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