唐鋤星 ( 1 / 2 )
「神子殿。そのようなところで、寒くないのですか?」
簀縁の高欄から身を乗り出して、夜空を眺めていた花梨はあわてて後ろを振り向いた。
御簾の向こうのほの暗い灯に照らされて、青い衣の人物が佇んでいる。
「幸鷹さん! こんな時間にどうしたんですか?」
現代の時間に直せば夜の10時過ぎ。
八葉とともに都を巡る時間はとっくに過ぎている。
目を丸くした花梨に、幸鷹はにっこりと微笑みかけた。
「緊急にお知らせしたいことがありまして。紫姫を通すには時刻が遅いので、こちらの女房殿にご案内いただきました」
よく見ると、幸鷹の背後に邸の女房が控えていた。
「あ、そうなんですね。紫姫、もう寝ちゃってるし、どうもありがとうございました」
「とんでもございません、神子様。幸鷹様に御酒か白湯をお持ちいたしましょうか」
「ああ、どうかお構いなく。私はすぐに失礼いたしますので」
幸鷹の言葉にうなずくと、女房は奥へと下がっていった。
「……もしかして、星を眺めていらしたのですか」
花梨の横までやってきた幸鷹は、夜空を見上げて尋ねる。
「はい。空気が澄んでいてよく見えるなあって。私、星座のことはよく知らないけど、あれだけはわかりますから」
花梨が指差した先には、冬の夜空を彩る三つの星が輝いていた。
「……唐鋤星(からすきぼし)、ですか」
「唐鋤?」
「牛や馬につけて畑を耕す道具のことです」
「ああ、そういう風に見えるんですね。私の世界ではオリオン座って言うんです。三つの星がオリオンっていう人のベルト…帯を表すんですよ」
「オリオン……」
幸鷹は言葉の音色を味わうように呟く。
「え〜と、確かその人はさそりに刺されて死んだから、さそり座が夜空に出てくると、オリオン座は沈んじゃうって聞いたような……」
突然、幸鷹が何かに耐えるように瞼を閉じた。
「幸鷹さん?! もしかして頭痛ですか?」
「……大したことはありません」
「ありますよ! とにかく座ってください。ううん、それより部屋の中に入ったほうがいいですね」
幸鷹をいたわるつもりなのか、花梨は彼の袖を引いて局の中へと導く。
こんなところを他人が見たら、幸鷹が花梨の元に逢引きに来たと誤解してしまうだろう。
(神子殿に、ご注意しなければ……)
そう思いつつも、にわかに激しくなった痛みに、幸鷹はうずくまるしかなかった。
オリオン座、さそり座、ベテルギウス、リゲル、アンタレス……。
知っている、自分はその名を知っている。
なのに記憶が、サラサラと指からこぼれる砂のように消えていく…………。
しばらく後、ようやく痛みが治まり、目を開いた幸鷹はぎょっとした。
花梨が瞳がすぐそばにあったからだ。
しかもその瞳は、今にもこぼれそうな涙で満たされている。
「み、神子殿」
「大丈夫ですか? まだ痛みますか?」
「大丈夫です。ご心配をおかけいたしました。あの、どうか」
もう少し離れてください……と言う前に、花梨がわっと泣き伏せた。
「……神子殿…?」
「ごめんなさい! 私、神子なのに、幸鷹さんを癒すことができない! 触ることさえできなくて、何の役にも立てなくて…!」
「……!……」
あれは先日、石原の里でのこと。
バランスを崩した花梨を助けようとして、手に触れた瞬間に鋭い痛みが走った。
これまでに経験したことのない、息が止まるほどの激痛。
その後現れた泰継から、「神子に触れてはならぬ」と告げられた。
「神子の気は幸鷹の気を変じさせる。体が不調を訴えるのは、幸鷹の体がその気と合わないからだ」とも。
以来、花梨はこの上なく慎重に、幸鷹に触れないよう気をつけてきたのだと思う。
先ほどでさえ直接手に触れずに、袖を引いて局に導いたのだから。
今さらながらそのことに、幸鷹は気づいた。
「……神子殿、どうかそのようにお気になさらないでください。あなたのお心遣いには深く感謝しております。本当に、あなたはお優しい方だ。私はどれだけそのお気持ちに癒されたかわかりません。それに……」
幸鷹は突然、言葉を途切らせた。
沈黙の中、かすかな衣擦れの音に気づき、花梨は泣き顔を上げる。
濡れた頬に、柔らかな絹の布がそっと触れた。
「……!」
「……今はこんなもどかしい方法でしか、あなたの涙を拭うことができません。ですからどうか、泣かないでください」
互いが触れることのないよう、幸鷹が注意深い手つきで絹布を差し出していた。
「…幸鷹さん」
「いずれあらためて、泰継殿とは話をいたします。私とて、この状態をいつまでも続けるつもりはありません。だいたいおかしいと思われませんか? この私があなたに触れることが適わなくなるなど。翡翠殿ならいざ知らず…!」
憤然とした幸鷹の言葉に、ようやく花梨がクスッと笑った。
「それって……」
「笑いごとではありません、神子殿。どうかくれぐれもあの男にはお気をつけください」
「は、はい。でも何かあったら、きっとまた龍神様が守ってくれますから」
「神子殿、『また』では、私が何か不埒なことをしようとしたようです…!」
「あ、ほんとだ!」
「ごめんなさい」と言いながら笑いだした花梨につられて、幸鷹も微笑む。
張りつめた空気が弛緩し、温かな雰囲気が辺りを包んだ。
いつでも、どんなに深刻な場面であっても、話しているうちに道が拓けていくような気がするのはなぜなのだろう。
花梨も幸鷹もそれを不思議に思いながら、互いの存在をとても心地よく感じていた。
「……それでは、そろそろ用件のほうに入らせていただいてよろしいでしょうか、神子殿」
「はい! よろしくお願いします!」
幸鷹が取りだして広げた絵図に、花梨は熱心に目を通し始めた。
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