氷塊の楼閣 ( 3 / 3 )
「白龍の神子殿が、このような場所に何の御用かな」
背後から冷ややかな声が降ってくる。
望美は驚いて振り向いた。
見事な黒馬に跨がり、漆黒の装束をまとった青年が静かに見下ろしている。
「泰……衡さん?」
「銀も八葉も連れずにこのような田舎まで足を延ばすとは…少々不用心ではないか」
おもしろがっているような、非難しているような、どちらにしろ好意を感じられない物言いに望美は少し怯んだ。
「紅葉があまりきれいだから、つい歩いちゃって。そんなに遠くまで来てましたか、私」
「鎌倉方がここからあなたをさらって逃げるのは簡単だろうな」
「そんな……」と、望美は顔色を変える。
あからさまに面倒そうな表情を浮かべて、泰衡は手を差し伸べた。
「え?」
「高館までお送りする。以後、軽率な外出は避けられよ」
返事をする間もなく腕を引っ張られ、気づけば鞍上にいた。
「神子殿がいらした世界とやらは、よほど安全なところだったのだな」
馬の歩を静かに進めながら、泰衡が言った。望美の行動を非難しているのが明らかな口調。彼女は身を固くして答える。
「そんなこと……ありません。でも、確かに戦はなかったし、法律が人を傷つけたり殺したりすることを禁じていました。だから、ここよりはずっと平和な世界だったかも……」
「平泉もあなた方が来られる前は平和だった」
ピシリと鞭を打つかのような声。
「それに、人を殺めるのが罪なのは何処も同じだ」
ふっと泰衡の声が低くなったのに、望美は気づいた。
しばらくの沈黙の後、ぽつりぽつりと話し出す。
「そう……ですね。私の世界でも、外国……異国ではずっと戦争が続いています。一瞬で何万人も殺せる兵器が、数えきれないほどあるんです」
「ほう……」
「戦争を止めようと、いろいろな努力はしてるけど、やっぱり完全になくすことはできなくて……」
「それでも、あなたの国は平和になったのだろう」
「えっ?」と、望美は思わず振り向き、すぐそばにある泰衡の顔に驚いて再び向き直った。
彼女には一瞥もくれず、遠くを見たまま彼は続ける。
「絶望することは誰にでもできる。どのような犠牲を払っても、民を、国を守り、平和をもたらす……それが為政者の義務だ。あなたの国の平和は、その賜物ではないのか」
望美は目を見開いて、泰衡の言葉を噛み締めた。
* * *
「送っていただいてありがとうございました」
馬から降りると、望美は丁寧に頭を下げた。
「礼は不要だ。だが今後、一人歩きはご遠慮願いたい」
馬上から、相変わらず冷たい声が響く。
「はい……すみませんでした」
「望美?」
名を呼びながら門内から駆け寄ってくる影があった。
泰衡の表情がわずかに動く。
「おまえどこに……! 泰衡殿と一緒だったのか?」
門前に望美と、続いて泰衡の姿を見いだして九郎は立ち止まった。
「違うんです。私が散歩しながら遠くに行ってしまったのを、泰衡さんが送ってくれて」
「八人も揃って神子殿一人を守れぬとは、神子と八葉の絆は案外当てにならぬな」
「なっ……!」
食って掛かろうとする望美を九郎が止めた。
「泰衡殿のおっしゃるとおりだ。ご迷惑をおかけして申し訳ない。以後、望美は八葉が厳重に監視して、二度とお手を煩わせぬようにいたします」
「か、監視って何よ!」
抗議する望美を片手で捕まえながら、深々と頭を下げると九郎は門の中に入っていった。
門内でも言い合いが続く。
「時節を考えろ! 一人でフラフラ出歩くんじゃないと、何度言ったらわかるんだ」
「だって、紅葉を摘むのに誰かを引っ張り出すのも悪いから」
「紅葉を摘む?」
ゴソゴソと何かを引っ張り出す音。
「ほら、食卓に飾ったら秋らしくてきれいかなと思って。色と形がいいのを人数分揃えるのに苦労……」
「馬鹿か、おまえは!」
「………」
やがて、バツの悪そうな声が聞こえる。
「……せっかく摘んだんだ、譲に頼んで夕餉に添えてもらえ。だが、紅葉狩りでも栗拾いでもどんなつまらんことでも構わん、必ず誰かに声をかけろ。俺がいる時は俺に言えばいい」
「だって……馬鹿って……」
「馬鹿だと思うから馬鹿だと言うんだ。だが、おまえが本当に望むことなら、つきあうさ」
二人の足音が遠ざかっていった。
「……馬鹿馬鹿しい」
つい、一部始終を聞いてしまってから、泰衡はつぶやいた。
確かに馬鹿馬鹿しいが、いつでも、どんなときでも、九郎の周りには必ず温かな空間がある。彼を慕う人間がいて、笑みが絶えない。
「それが大将の器というものか……」
柳ノ御所に馬首を向けながら、泰衡は深いため息をついた。
塔堂伽藍が建ち並ぶ美しい北の都。
平和そのものに見えるこの平泉のすぐそばまで、戦の影は忍び寄っている。
どのような犠牲を払ってでも守り抜き、九郎に、源氏の真の大将にこの都を委ねる。
高く晴れ渡る空を一瞬見上げた後、泰衡は馬の腹を蹴り、大路を走り抜けていった。
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