一言だけの……
弟というやつが、いったいどのくらい兄に対して「愛情」を感じているものなのか……それは、俺自身、長男しかやったことがないのでわからない。
だが、少なくとも兄にとって弟は、生意気だったり、面倒くさかったり、こちらのことなんてちっとも考えていない薄情な人間に思えても、やはり大切な家族で、守りたい存在だ。
子どものころ、俺の言うことを全部頭から信じて、大きな目を丸くしながらうれしそうについてきた姿。
無邪気な笑顔。
声を上げてワンワン泣かれて、困ったこともあった。
泣く原因が俺のいたずらであっても、泣いている間中、俺の上着の裾をぎゅっと握ったままで。
「ば~か」って言いながら、何だか切なくて、どうしようもなく愛おしくて……。
だから、何かの脅威を前にして、同じくらい怖くても、心細くても、俺はこいつを守らなきゃいけない、元気づけて、笑わせなきゃいけない。
そう自分に言い聞かせてきた。
それは多分、兄弟姉妹の上に生まれた人間なら誰でも本能的に抱く思い。
親のものとは違うけれど、弟という存在に対する明確な「愛情」。
ところが……。
中学校、高校と年齢を重ねるたび、相手はどんどん扱いにくい存在になってくる。
妙につっかかってきたり、批判してきたり、時には説教までかます。
そんな背伸びが何だか微笑ましくて、つい顔を緩ませると相手は激怒。
吐き出す言葉はキツくて容赦がない。
おい、俺は間違ってもそんな言い方、お前にしたことないぞ。
ちゃんとお前のこと思ってしゃべってるんだからな。
なのに何だ、そのナイフか氷柱みたいな言い草は。
反抗期の子どもをもつ親のつらさって、こんな感じなのかな……。
俺が真面目に相手をしないことに、傷ついたような顔をしてあいつは背中を向ける。
「いつまで子ども扱いするんだ。たった1つしか違わないのに」
悔しさをにじませた言葉。
だがそれは、無理と言うものだ、譲。
お互い何歳になろうと、俺にとってお前は守りたい存在で、それ以外の見方なんてできやしない。
お前の未熟さとか、経験不足とかは関係ない。
俺たちが兄弟だからだ。
それが理由のすべてだ。
* * *
源平の闘いが終わり、望美を連れてお前はもとの世界に戻ると言う。
家族のことや望美のこと、いろいろ言付けながら、肝心のお前に対する言葉はたった一言しか出てこなかった。
「譲──元気でな」
俺は……もしかすると、泣きそうになっていたのかもしれない。
兄弟として生まれて、共にいるときはもちろん、離ればなれになっても、ずっと一方的な愛情を抱き続けてきた相手。
兄が弟を思う気持ちが100だとしたら、弟が兄を思う気持ちなんて10にも満たないのだろうけれど……。
元気で。
これからも幸せで。
もう二度と会えないけれど、俺はお前のことをずっとずっと思っている。
だって、お前は俺のただ1人の弟なんだから。
「ああ、兄さんも」
少し照れたように笑って、お前は望美と顔を見合わせた。
まったく、兄なんてつまらないものだ。
どれだけ大切に思っていても、愛情はいつも一方通行。
たかが1年、生まれた時期が違うだけなのに。
文句を言いたいのは俺のほうだよ、譲。
「あの、これ、俺がこっちでいろいろ食べ物を再現したレシピ。
朔に清書してもらったから、平家の人にも読めると思う」
突然、譲が和綴じの冊子を差し出した。
「レシピ……?」
「いくらここに残る覚悟を決めたからって、元の世界の食べ物が恋しくなることはあるだろう。
そういうとき、俺はもう助けられないから」
「……サンキュ。よくこんなの作ってる時間があったな」
「そのくらい……」
譲が地面に視線を落とす。
照れてるのか、顔を上げようとしないので、俺はひとつ息をついた。
「……譲。俺は、あんまりいい兄貴じゃなかったかもしれないが、お前と兄弟でよかったと思ってるぜ」
「……!」
「元気でな」
譲の頭に手を置き、髪をくしゃっと乱した。
お前はいつもこうやると嫌がったっけ。
でも、それももう最後。本当に最後だから。
「じゃあ、俺は行く」
断ち切るように背中を向けた。
自分で決めた運命。未来。
未練たらしいのはごめんだ。
「……兄さん!」
譲の声が響く。
まったく、今ごろ顔を上げやがって。
俺が足を止めないので、譲は声を張り上げて叫んだ。
「………元気で……っ!」
……バカ。それじゃ俺のあいさつと同じだろうが。
振り向かずに片手を上げ、あいつの声に応えた。
兄弟揃って、こんなときに同じ一言しか出てこない。
たった一言しか。
万感を込めた一言しか。
元気で。
幸せで。
たとえ会えなくなっても。
もう二度と声が聞けなくなっても。
大切な家族、ほかに二人といない血を分けた兄弟の幸せを心から祈って。
一度も振り返ることなく桟橋への道を辿り、迎えに来た小舟に乗り込んだ。
船頭が櫂を操り、船はすぐに泊を離れる。
これから始まる新しい日々。
やることが山積みで、しばらくはもう会えない連中のことを思い出す暇もないだろう。
規則正しい櫂の音に耳を傾けながら、俺は晴れた空を見上げた。
太陽がいつもよりにじんで見えるのは、きっと春霞のせい。
そう決めた俺は、まぶしい光にほんの少しだけ目を細めた。
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