ひっかかり
「……火原先輩は、柚木先輩とは1年生のころから一緒なんですよね」
偶然購買部で会った火原に、香穂子はおそるおそる尋ねた。
「うん! ここの入学式の日に会ったんだよ! 正確には入学式の前に……かな」
真夏の太陽のごとき明るさで、火原が答える。
片手には大好物のカツサンドが握られていた。
「あの……そのころから柚木先輩はあんな感じで……?」
「そうだね! 大人っぽかったから、おれ、最初は上級生だと思ったんだ。
そしたら入学式のとき、新入生代表であいさつしたからさ。驚いちゃったよ!」
何の曇りもない表情。
ということは、やっぱりこの人は知らないのだ。
はあ……と、心の中でため息をついて、香穂子は頭を下げる。
「ありがとうございました。じゃあ私、行きますね」
「へ? 何がありがとうなの? 日野ちゃん?」
火原の不思議そうな声を背に、普通科棟へとぼとぼと歩き出す。
誰がどう見ても柚木と一番親しいのは火原。
その火原が知らないということは……。
「どうして私だけがあんな目に遭うのよ!!」
校舎の脇の木にバンと手を着くと、香穂子は小声で叫んでいた。
* * *
最初のそれは、あまりに突然だった。
練習のために一人で上がった屋上。
暗く重い曲を奏でている柚木。
邪魔をしてはいけないとあわてて戻るついでに、これからもがんばると明るく告げた。
自分の負担の大きさを、親身に心配してくれていたので。
下げた頭の上から、聞き慣れない旋律が聞こえる。
「心配…?」
不協和音を奏でる音色。
思わず顔を上げると、そこにあの柚木はいなかった。
「俺が……お前の?」
柚木……先輩……?
「わからないかなぁ」
靴音を立て、音楽科の制服が近づいてくる。
顔の横に手が置かれ、覆いかぶさるように整った顔が迫った。
「うざいんだよ、お前」
………え……?
目の前が、真っ白になるような衝撃。
* * *
ところが翌日、ショックを受けている香穂子の前に、まったくいつもと変わらない柚木が現れた。
王子様のような笑顔と、優しい声音。
あれは何かの間違い。
夢のような出来事だったのだ……と、思い込もうとした矢先、今度はもっと強烈に脅迫された。
二人きりの保健室で。
ベッドの上に押し倒すような真似までして。
わからない、わからない。
何度考えても香穂子にはわからなかった。
一番親しい友人にも見せない、あの信じられないような素顔。
香穂子に対しても、隠すことは簡単なはずなのに。
なぜ、彼は自分にだけ、あんな姿を見せるのか?!
誰にも相談することができず、香穂子は木の幹を背に呆然と佇む。
私はどうすればいいんだろう?
これからどうやって、闘っていけば……?
「……!…」
………でも……
あの時柚木が見せた表情、言葉、声の調子は、どれも侮蔑的で、威圧的で、日ごろの彼とは似ても似つかないものだった。
それは確かに驚くべき出来事で、その一つひとつに傷つけられ、怯えさせられたのだが……
「俺が騙しているっていうんなら、騙されるお前らだって悪い」
保健室を去るとき、そう言い捨てていった彼。
あの表情こそを、香穂子は忘れられなかった。
偽りの微笑みでも、傲岸な嘲笑でもない、その下のもっと深いところにある感情。
あれは……。
「……傷ついてる……?」
香穂子は、自分の口から出た言葉に自分で驚いた。
周りの人間を騙すことなど容易いのだと、誰も香穂子の言うことなど信じないのだと、嘲笑うように言ったその後に続く言葉だったのに……。
彼はその状況を喜んではいなかった。
むしろ、怒りと落胆を感じているようにも見えた。
それはいったい……?
予鈴が鳴り、香穂子は我に返った。
次の時間は小テストがある。
このところ、セレクションと柚木の事件でろくに勉強ができていないが、普通科の生徒である以上、どの科目もサボるわけにはいかなかった。
考えてもしょうがない!
とにかく、なるべく近づかず、あの人を刺激しないようにしよう。
そう決めると、香穂子は教室に小走りで急いだ。
今日の小テストが返される日、また、柚木と屋上で会うことになるのを、香穂子はまだ知らない。
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