玻璃の向こう ( 2 / 2 )
「生意気なんだよ!」
「目障りだ!!」
続いて、人間を蹴り上げる鈍い音とくぐもった悲鳴。
耳にした友雅はため息をついた。
「やれやれ。こんな場所を通りかかるのではなかったな」
内裏に並び立つ建物の間を網の目のように走る小路。
その奥まった行き止まりから声と物音は続いていた。
「ああ、確かこちらのはずだ。皆で探しなさい」
友雅が声を張って言うと、ピタリと音が止む。
「小路の奥まで隈無く頼むよ」
すばやく言葉が交わされ、行き止まりから子供たちが飛び出してきた。
「おまえたち、こら、待ちなさい!」
文字通り蜘蛛の子を散らすように、一目散に走り去っていく。
全員の後ろ姿が視界から消えると、友雅は行き止まりに足を向けた。
「立てるかい?」
切れた口の端の血を拭いながら、身を起こした少年に声をかける。
「申し訳ございません。あの……どこかに眼鏡が落ちておりませんでしょうか?」
言われて見回すと、壁際の草むらで玻璃が光を弾いていた。
友雅は片膝をついて拾い上げ、軽く拭ってから手渡す。
「ありがとうございます」
丁寧に礼を言うと、少年は眼鏡を鼻にかけた。
その顔に見覚えがあった。
「ああ、君は最近出仕した童男(おのわらわ)だね。名は?」
「藤原……鷹通と申します。失礼ですが……」
「橘友雅だ。近衛府にも何度か使いで来ただろう? 見かけたことがある」
「近衛府の……橘殿……。
見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした」
手をついて深々と頭を下げる鷹通を見て、友雅は苦笑した。
「君はずいぶんと真面目に働いていたからね。
古参の童たちには目障りだったのだろう。
これに懲りて、多少は手を抜くことを覚えなさい」
「……眼鏡を……」
うつむいたまま鷹通がつぶやく。
「……?」
地面についた手は、土を握りしめていた。
「……最初に取られて……身動きできなくなったのです……」
それさえなければ負けなかった……とでも言いたげな少年を、友雅はあらためて見つめた。
ほんの十一、二歳の童男であっても、暴力に抗えなかった悔しさは大きいのだろう。
「その眼鏡は誰から見ても明らかな弱点だからね。狙うのは当然だ」
「……はい」
「鷹通」
声と同時に風が鳴り、鷹通は思わず後ろに飛び退いた。
顔すれすれのところを友雅が抜き放った刀がかすめる。
「!?」
「なるほど。確かに身のこなしは悪くない」
「た、橘殿!?」
「友雅……と呼びたまえ。橘姓はほかにもいるからね」
「友雅殿、いったい何の真似ですか?!」
鷹通は立ち上がって友雅を睨みつけた。
気丈な様子に、思わず笑みが浮かぶ。
「今、君は刀を見たかい?」
「……え?」
「刀を見てから身体を動かしたかい?」
「そ、そんな暇は……」
カシャンと刀を鞘に収めると、友雅は続けた。
「だが君はちゃんと刃(やいば)をよけた。それでいいのだよ。
一瞬を争う場合、見えてから動くのでは遅いからね」
「……!」
ゆったりと背を向けると、友雅は歩き出した。
この話はこれで終わりだというように。
「橘友雅殿!」
足音が小走りに近づいてくる。
「友雅殿、今度、近衛府にお伺いしてもよろしいでしょうか」
「……何のために?」
「私に剣を……! 武術をお教えください」
「治部省では無用だろう」
「役目を果たすために役立つことはすべて身に付けたいのです。
不逞の輩に大切な書状を奪われる訳には参りません」
鷹通は、友雅の顔を見上げながら必死で訴えた。
「大切な書状……ねえ」
面倒臭そうに応えると、友雅は不意に足を止めた。
「……友雅殿?」
鷹通が問いかける。
畳んだ扇を鷹通の頬に当て、その瞳を覗き込むと友雅は言った。
「書状などはどうでもいいが、君がいつか、自分の大切な女性(ひと)を守るために使う……というのなら、教えないこともないがね」
「な!?」
鷹通の頬に血が上る。
「お戯れはおやめください、友雅殿。それに、私の大切な方は、すでに……」
「たとえ今はいなくとも、君ならきっといつか情熱的な恋ができるはずだよ。
まったく……実に羨ましいね」
「?」
「では、時間が空いたら訪ねてきなさい。
私でなくとも、近衛府には腕自慢が多い。誰かしら相手をしてくれるだろう」
そう言うと、友雅はまた背中を向けて歩き出した。
* * *
「じゃあ、鷹通さん、剣は友雅さんから習ったんですか?」
話を聞き終えたあかねが尋ねる。
「それが、友雅殿は不在の時が多く、代わりに近衛府の武官の方々がいろいろと手ほどきしてくださいました」
「私は人に教えるのが得意ではないからね。かえってよかったと思うよ」
香炉を手に取り、香りを「聞き」ながら友雅が言った。
それをちらりと見ると、鷹通はあかねに囁く。
「実は、自衛の技を身につけるよりも早く、ほかの童からの嫌がらせはピタリとやんだのです。
私が近衛府の方々と親しくさせていただいているのを見て、これはマズいと思ったのでしょう」
「え、それってもしかして……?」
「ええ、多分。友雅殿はそこまでお考えだったのだと」
「神子殿、鷹通は私を買いかぶる傾向があるからね。話半分に聞きたまえ」
目を閉じたまま、友雅が口を挟んだ。
鷹通はあかねと目を見交わすと、背筋を伸ばしてコホンと咳払いする。
「加えて申し上げるなら、そう言う友雅殿はなぜかご自分を小さく見せようとする傾向がおありなのです」
「?!」
友雅が目を開くと、鷹通は澄ました顔で微笑んだ。
あかねがぷっと吹き出す。
「もう、やっぱり、白虎コンビのチームワークは抜群ですね!」
「こんび?」
「ちいむわ…?」
くすくすと笑い続けるあかねを前に、二人が顔を見合わせる。
「……何にせよ、神子殿のお役に立っているのならば幸いです」
「そうだね。我らの姫君のご機嫌が麗しければ何よりだ」
* * *
しばらく後、あかねと藤姫に暇乞いをすると、鷹通と友雅は夜道を辿った。
辺りはすっかり闇に包まれている。
「……本当に、あのときお助けくださったこと、感謝しております、友雅殿」
鷹通が口を開いた。
「鷹通、君は古い話をしすぎだよ」
「しかし、近衛府で学んだことが、現在、八葉の任を果たす役に立っております。
友雅殿には遠く及びませんが、これからも持てる力を尽くしたいと」
パチンと友雅が扇を鳴らした。
「昔も今も……」
「?」
「お役目のためになど、教えたつもりも、教えるつもりもないよ」
「はい?」
友雅はゆっくりと鷹通のほうを見た。
優雅な笑みが顔に刻まれている。
「君の大切な女性(ひと)を守るために使う……。始めからそういう約束だろう?」
「と……!?」
「情熱的な恋は、もう始まっているのではないかな?」
「友雅殿!!」
誰のことを言われているのか悟って、鷹通は一気に赤くなった。
笑いながら大股に歩く友雅と、必死に追いすがってまくしたてる鷹通。
月の光に照らされて、二人の影が都大路に長く延びた。
「そのような言い方は不謹慎」
「神子殿に失礼」
「なぜこれが恋になるのです」
「だいたいあなたはいつも」
あかねが封印の力を得てからまだ数日。
八葉と神子の絆が「ただ一つの特別なもの」に変わるには、もう少し時間が必要だった。
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