花びらの中で2 ( 2 / 2 )
まったく口をきかなくなった千尋は、ただただ忍人の横に座り続けていた。
それを遠巻きに、俺と柊、遠夜や布都彦が見守る。
長い沈黙の夜が明け、朝の光が一筋、部屋の中に差し込んできた。
「千尋」
俺は、ついに声をかけた。
「…弔いの支度をしなければならない。少しの間、隣の部屋で待っていてくれないか」
後ろ姿はピクリとも動かず、俺の声が聞こえている様子はない。
無理にでも引き離すしかないと考え始めたとき、数枚の花びらが部屋に吹き込んできた。
「……桜…」
「え?」
かすかな声が聞こえた。
「……桜……見に行っていい…?…」
「……千尋……?」
すうっと、揺らめくように立ち上がる。
「…少しだけ……。すぐ……戻るから……」
そのまま、何も目に入らないように部屋を出ていく。
「風早、君がついていくべきです」
柊が低い声で言った。
「…だが」
「我が君が声を上げて泣けるのは、君の前だけでしょう?」
「!…」
* * *
何かに導かれるように、千尋はまっすぐに歩いていた。
春の光は柔らかく、小鳥はさえずり、空は青い。
愛する人を失った日でさえ、容赦なく美しい。
残酷なまでに。
やがて、風が甘い香りを運んできた。
目の前に広がる薄紅色の雲。
川のほとりに、数えきれないほどの桜が咲きそろっていた。
千尋が、迷いなく歩を進める。
淡い花の雲の中に姿を見失ってしまいそうで、慌てて後を追った。
「……きれい………」
巨木の陰から聞こえるつぶやき。
回り込むと、花の中に千尋が佇んでいた。
満開の桜は、温かな風に揺れながら、花びらの雨を降らせる。
「……きれい…だね…………忍人さん……」
まるで傍らに立っているかのように……。
「……約束の……桜……」
まぶしそうに目を細め、うっすらと微笑む。
「……見られて………よかった……」
心のどこかで塞き止められていた涙が、一筋流れた。
俺は千尋に歩み寄る。
「……どう……し…て…」
絞り出すような声が、聞こえた。
「…どうして……なの……」
次々と雫が頬を伝う。
「…千尋…!」
ガクンとくずおれた身体を支える。
「……調子がいいって……養生したからって、言ってたのに……すごく…」
突然千尋がはっと息を呑んだ。
「…すごく………優…しく…!!?」
「千尋?」
彼女の身体がガクガクと震えだす。
「わかってたのに…! 忍人さんが優しいときは、嘘をついてるって、わかってたはずなのに…!! どうして私、気づかなかったの……?!!」
今にも気絶しそうな様子に、俺はあわてて声をかけた。
「落ち着きなさい、千尋。式典の前の忍人は、決して瀕死だったわけじゃない。賊を相手に闘った後、息絶えたんだ」
「…賊?」
千尋がようやく、俺の目を見る。
「おそらく、君を狙って侵入したんだろう。物陰に大弓が隠されていた。もちろん、かつての忍人なら、簡単に撃退できたはずだ。だが……」
辛い事実を伝えなければならない。
俺にしがみついて震えているこの少女に。
「忍人は5年前、橿原宮が陥落した夜に死にかけたんだ。そのとき、荒魂と契約を交わし、破魂刀を手に入れた。君に出逢うずっと前から、忍人は自分の命を削って、闘い続けていたんだ」
千尋の瞳が大きく開かれる。
「彼の死は…………もうずっと以前に、定められていた」
「…うそ……!」
おそらくその瞬間、お互いの頭に浮かんだのは同じ姿だった。
二本の剣を構えて、一分の隙もなく立つ忍人。
しなやかに、舞うように、繰り出す刃。
眼前に切り拓かれる道。
自らの死を手繰り寄せながら、何の迷いもなく戦う剣士。
「中つ国のため……」
俺は言葉を飲み込む。
これでは真実を半分しか伝えていない。
「……君のために………忍人は闘っていたんだ」
千尋がポロポロと涙をこぼしながら頭を左右に振った。
「…そんなの私のためじゃない…! 私のためなら…生きて……」
両手で顔を覆って叫ぶ。
「生きて、そばにいてほしい! 微笑んでほしい!!」
泣き崩れる千尋の身体を黙って両腕で支えた。
そうだ、忍人。
君は自分がどれだけ大切な存在か、最後まで自覚していなかったんだろう。
君がいなければ、前に歩き出すこともできないほど、傷つき、嘆き哀しむ人間がいることを。
君はそれを知らなければならなかった。
誰よりも大切に想う人を哀しませないため……君は君自身を守らなければならなかったんだ。
いつの間にか、俺の頬を再び涙が伝い出した。
どうしようもない喪失感が全身を包み込む。
慟哭する千尋の身体を支えながら、俺もまた千尋にすがって泣いていた。
こんなにも後悔するなら、君のわがままなどきくのではなかった。
自分より他人を大切にする君は、自分より大切な千尋のため、生きねばならなかった。
悔いても嘆いても、時は戻らない。
この運命は変わらない。
それがこんなにも哀しい。
はらはらと桜の花びらが舞い散る。
千尋の涙のように。
俺たちの涙のように。
そのどちらを止める術もなく、短い春の陽が落ちるまで、俺たちはただそこに立ち尽くしていた。
泣いていた。
泣き続けていた。
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