花びらの中で ( 3 / 3 )
「……中つ国の……」
鼻の頭を赤くして、まるで泣く寸前のような顔で千尋が話し出す。
「…私が作る国の未来を……見たい…って」
そういえば、そんなことを言った……と、忍人は思った。
「戦いに勝ったから終わりじゃなくて、本当の仕事はこれからなんだ…って……思うから……」
不意に、言葉が途切れた。
肩が大きく震えている。
「千尋?」
覗き込んだ顔には、幾筋も涙が流れていた。
「…! どうしたんだ?」
「だ、だから……」
涙声で千尋が続ける。
「どこにも行かないでください…! 終わらない約束をしてください…!」
そのまま忍人の胸に顔を押し付けて、泣きじゃくってしまう。
子どもをあやすように髪や肩を撫でながら、忍人は千尋が何を恐れているのかを悟った。
「……君は…、約束を果たすと俺がどこかに行くとでも思っているのか」
胸の中で千尋が小さくこくりとうなずく。
「……そうか」
しばらく沈黙が続いた。
時折吹く春風が、金色の髪を揺らす。
小鳥たちはあいかわらず、楽しげに歌っている。
千尋は、自分が言ってしまった言葉の重さに、徐々に打ちのめされていった。
一方的に慕って、一方的に思い詰めて、こんなふうに迷惑をかけている。
忍人はこれまで、自分のために命を賭けて戦ってきたというのに。
ちゃんと謝ろうと顔を上げると、忍人がじっと見つめていた。
「…お、忍人さん…」
勇気を振り絞って声を出す。
「め、迷惑かけて」
遮るように、凛とした声が響いた。
「俺は王の愛人になる気はない」
その瞬間、千尋は胸が凍り付いた気がした。
表情をなくした彼女に、忍人はさらに言葉をかける。
「だから、君の選択肢はひとつしかない」
止めようもなく、手が震え出した。
必死で顔を背けて、表情を取り繕おうと試みるが、どうしてもできない。
逃げ出すため身体を捩ると、羽織っていた上着ごと抱きしめられた。
「?!」
「俺がいくら葛城の出でも、狭井君は簡単には許すまい」
その言葉の意味を理解するのに、しばらくかかった。
「君は苦労することになる。それでもいいのか」
少し穏やかになった声が、ゆっくりと胸に落ちてくる。
「…お…忍人…さん…?」
おそるおそる振り向いた千尋を、この上なく優しい目で忍人が見つめていた。
「…そ、それって……」
「唯一の選択肢だ」
千尋は両手で口をおおい、ボロボロと涙を流す。
そして今度は自分から、忍人に抱きついた。
長い指が髪を優しく撫でる。
「……本当に、いいのか…?」
千尋は無言で、何度もうなずいた。
「ちゃんと口で言ってくれ。俺にも覚悟がある」
そう言われて、顔を上げる。
涙でかすむ視界の中に、柔らかい微笑みがあった。
「…私と……ずっと一緒にいてください…忍人さん」
「誓おう」
忍人の顔が静かに近づく。
千尋はそっと目を閉じた。
はじめてのキスは、少し涙の味がする。
けれど、溶けるように甘く、温かかった。
「婚礼までは時間がかかるぞ」
忍人の胸に抱かれながら、千尋は微笑む。
「10年かかっても、20年かかってもいいです」
「それは…勘弁してもらいたいな。俺がもたない」
「え?」
「愛人の道を選んでしまいそうだ」
「忍人さん!」
忍人はもう一度千尋をギュッと抱きしめた。
「冗談だ。絶対に諦めない。必ず成し遂げてみせる」
「…はい」
はらはらと舞う桜色の雪に隠れるように、二人は再び口づけを交わした。
二人以外の人間の三輪山への立ち入りを、風早が禁じていたことを知ったのは翌日。
婚礼が執り行われたのは、さらに1年後だったという。
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