秋時雨 ( 2 / 3 )
雨は降り続いている。
立っているのに疲れて、二人は紅葉の根元に腰を下ろした。
「いつもの年だったら、きっとこの紅葉も散ってましたよね。気が滞るのは困るけど、今だけはちょっと感謝しちゃいます」
「神子殿」
花梨の明るい考え方に、幸鷹は思わず笑みをこぼす。
「私が住んでいた国は、こんな雨の日がとても多かったですね。あの頃は、学校と家を往復するだけでしたから、あまり気にしませんでしたが」
雨空を見上げながら幸鷹が言った。
「イギリス…って、ガーデニングとかで有名ですよね。お庭とかきれいなんでしょう?」
身を乗り出して花梨が言うと、幸鷹が苦笑した。
「申し訳ありません、神子殿。その頃の私には、自然や花を愛でる習慣がありませんでしたので…」
はあーっと感心したように花梨が言う。
「そっか、きっと一生懸命勉強してたんですね」
何やら反省したような顔をする花梨を見て、幸鷹は続けた。
「でも、キャンパスを流れる川のほとりに柳の並木があって、新緑が美しかったのは覚えていますよ。夏の間は学生たちが、観光客のためにアルバイトでボートを漕ぐのです」
「ボート…」
幸鷹の目が、遠い記憶を辿る。
「その頃はまだ小柄だったので漕がせてはもらえませんでしたが、家族でボートを二艘チャーターして、川下りを楽しみました」
「………」
記憶の中の家族、笑顔、交わした会話…。
ひとつひとつが心の扉の奥からよみがえってくる。
自分を愛してくれた、自分も心から愛した、大切な人たち。
取り戻すことができないものを想って、幸鷹は静かに目を伏せた。
(私は……もう戻れない……)
そのとき、彼の手に小さな手が重ねられた。
驚いて目を上げると、心配そうに見つめる花梨の視線とぶつかる。
「あ、申し訳ありません、神子殿。考えごとをしておりまして」
「…幸鷹さん」
口先でのごまかしなど通用しない。
花梨はとうに、幸鷹の想いを感じ取っていた。
それをあえて口にせず、いたわりを瞳に宿らせて見つめる。
この京でただ一人、自分を理解してくれる女性を、幸鷹はこの上なく愛しく思った。
「クシュン!」
不意に、花梨がくしゃみをする。
「神子殿?!」
「あ、ごめんなさい。少し寒くなっちゃって」
花梨は両手で自分の肩を抱いた。
これまで意識して目をそらしていたが、肌に貼り付く濡れた衣はいかにも寒そうだ。
「神子殿、その…狩衣はお脱ぎになられたほうがよろしいかと思います。体温を奪う一方ですから。よろしければ私の袍をはおってください」
「え、でも…」
素早く帯を解き、袍を脱いでから幸鷹はしばし考え込んだ。
「……さすがにこれも濡れていますね」
すっと花梨に背を向けると、袍の下の直衣に手をかける。
「ゆ、幸鷹さん」
肩の飾り紐を解き、バサリと脱ぐと、薄萌葱色の直衣を花梨に差し出した。
「こちらのほうがましでしょう。私は離れておりますので、濡れている衣服を脱いで、代わりにはおってください」
「は、はい。ありがとうございます」
もちろん、幸鷹は直衣の下にも着物を着ているのだが、何だか気恥ずかしくて、花梨は下を向いたまま受け取った。
くすっと笑みをもらしてから、幸鷹は樹の向こう側に行く。
背後に衣擦れの音を聞きながら、止まない雨の向こうを透かし見た。
辺りには人っ子一人いない。
綾なす紅葉の下に、自分の運命を変えた女性と二人きり。
(この雨が永遠に降り続けばいい…と考えるのは不謹慎なのでしょうね)
幸鷹は心の中で呟く。
「くしゅん」
また小さなくしゃみが聞こえた。
「神子殿、大丈夫ですか?」
後ろを振り向かずに声をかける。
「は、はい。何とか」
心細げな返事を聞いて、「失礼いたします」と、紅葉の樹を回り込んだ。
口を開こうとして、思わず言葉を失う。
直衣を「はおっている」というよりは、直衣に「着られている」と言ったほうがふさわしい格好で、花梨が立っていた。
「……神子殿」
「や、やっぱり大きいですね。あはは」
ぶかぶかの襟元から、むきだしの肩が今にもはみだしそうだった。
低いところに伸びた枝に、狩衣と、その下に着ていたセーターがかかっている。
かなり奥まで濡れたらしい。
「それだけではお寒いでしょう」
幸鷹がさらに1枚脱ごうとすると、花梨が慌てて止める。
「だ、大丈夫です! そんなことしたら幸鷹さんのほうが風邪ひいちゃいます!」
「神子殿をお守りするのが私の役目ですから」
「そんなの嫌!」
いつになく厳しい語調に、幸鷹は思わず手を止めた。
「私を守るために幸鷹さんが何かを犠牲にするのなんて嫌です!」
目を潤ませての必死の訴え。
が、言っているそばからまた「くしゅん!」とくしゃみが出る。
一つ溜め息をつくと、幸鷹は「わかりました」と答えた。
そして花梨の腕を取り、引き寄せる。
「ゆ、幸鷹さん…?!」
「あなたも私も寒くない方法は、これしかありませんから」
「で、でも…!!」
両腕で閉じ込めるように抱き締められて、花梨は真っ赤になった。
「身体が温まるまでのご辛抱です。さあ、座りましょう」
そのままの体勢で紅葉の根元に腰を下ろす。
はからずも、花梨は幸鷹の膝の上に乗る形になってしまった。
「あ、あの……!」
「失礼します」
花梨の肩を覆うように幸鷹が袖を広げる。
すっぽりと包まれて、心地よい温かさが伝わってきた。
(あ…温かい…)
幸鷹の機転に抗議もできず、真っ赤な顔のまま、花梨は黙って身を寄せた。
紅葉の葉を揺らしながら、雨はさらに降り続く。
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